『れもん・どりゐむ3』
人前で排泄をする、ふつう、それはあまり考えられない状態である。
排泄器という、ふだんは人目に触れない、触れさせない身体の部位を一部とはいえ露出させ行われる行為。あるいは排泄物にまつわる文化的な禁忌。人前での排泄が許される状況とは、もしかしたらある文化そのものが不安を覚える危機的瞬間かもしれない。
人前での排泄とは、人の間、すなわち人間という言葉そのものが、その社会性をあらわしているとすれば、人前での排泄は社会性、あるいは、人間であるがゆえ、人間であるがこそ、その人間性を否定する(あるいは挑戦する、かもしれないが)とも言えるだろう。
彼女は、人前での排泄を、わたしたちがちょっと想像できないぐらいの回数、行っている。それでも彼女が人間性、社会性を保っていられるのは、おそらく排泄の瞬間を悟られてはいないだろう、排泄物そのものは見られていないだろう、という二点においてかもしれない。
彼女は、おしっこが我慢できない。
尿意を覚えてから極めて短い時間の後には、彼女のからだはすでに排泄行為を始めている。
そのわずかの時間に、彼女が現在おかれている状況を中断しトイレに駆け込むことは、17歳の聡明な頭脳と健康な肉体をもってしても、容易ではない。必然的に、彼女は、人前で(トイレ以外の場所で、と言っても良いか)、排尿せざるを得ない。
彼女の生活の多くを占める学校で、通学のための満員のバスの中で、季節を彩る花々の咲く道端で、友人と他愛のないおしゃべりを交わすカフェで、お気に入りに服を選ぶショッピングセンターで、あるいは、こころ静かに目を閉じるベッドの中で、彼女の居る場所すべてで、彼女は望まない排泄を行っている。
彼女がなぜあんなにも笑顔でいられるのか、気を許せる友人たちに囲まれ女子高生としての生活を送れるのか、そして、彼女のからだの秘密を、親とごく近しい人物のみにしか打ち明けることなく胸に抱えていられるのか、正直、わたしには分からない。
わたしは、彼女が運命を受け入れ、あるいは運命に抗い、生を謳歌する姿を、ある尊敬のまなざしで見つめる。誤解を恐れずに言えば、わたしは彼女に、ある憧れさえ抱いている。
わたしは奇跡的に、彼女の名前と、彼女がはにかみ、ときには頬を膨らませながら話してくれた彼女の生活の一部を、ここにひっそりと記述することを許されている。いや、わたしがついうっかり、口を滑らせてしまうと、彼女はひどく蔑んだ目でわたしを見るから、許されてはいないかもしれない。
夢泉 みはる
次の春が来ると、高校3年生になる愛らしい笑顔の少女。
夢のなかから現れたおもらしの妖精、なんて呼べば、また彼女は、蔑んだ目でわたしを見るだろうから、胸の中だけでそっと呟いてみる。
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