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トイレの戸を開け、下着をおろす、便器に座る、おしっこが溢れる、ほとんど同時だった気がする。
じょっ、じょっ、じょじょっ、耐えに耐えていたおしっこは一気に噴き出すのではなく、
いきまないと出てはくれなくて、ずっと我慢していたせいか、筋肉がまだ硬直しているような気がした。
「…っ」
トイレまでたどり着いた安堵から、ゆうは大きくため息をつく。うっとり、とはとても言えないけれど、
一番近いのはそんな表情。しばらく、なにも考えたくない。
とッ、とッ、とととッ、最後の一滴が流れると、なんだ、たったこれだけのおしっこで、
あんなに苦しめられていたのか、少しおかしな気持ちになった。トイレットペーパーを当てると、
股の間からおしりのほうまで、ぺったりと張り付く。両足のあいだに目をやると、白い下着の、
布地が二重になっているあたりを中心に、くっきりと濃く変色している。
どうしようか、でも、脱いでしまうわけにはいかないし、仕方ない、覚悟を決める、立ち上がり
下着をあげる、
ひやり。
水を流して扉を出ると、板張りの廊下に点々、ゆうの歩幅にあわせて滴の跡が光ってた。
うそ、ゆうはあわててトイレに戻ると、ペーパーを巻きとり、隠滅にかかった。みっともないけど、
だれも見てないし、脚を開いて腰を落とす。下着が張り付く。床との距離が近くなると、ふわ、
懐かしいようなにおいがした。ざあっ、ペーパーを流して、作業完了。
おそるおそる、でもなるべくしぜんな顔をしてリビングにもどる、さりげなくつま先立ち、
ちょうどおばがお盆を運んできたところだった。湯気の立つカップと、お皿に載った
クッキーだろうか、紅茶のにおいがする。
「あ、おばさん、これ、母から」
鞄から紙袋を取り出し、机に置く。中身は母から聞いたけれど、覚えてはいない。
「あら、ありがとう」
相変わらず甲高いおばの声、うん、変に思われてない、わたし、
「それじゃあ、これで」
鞄を閉め、ぺこりと一礼すると、急ぎ足で部屋を出ようとする。
「あら、せっかくだからゆっくりしていけばいいじゃない」
おばが眉を寄せ、びっくりしたような顔をする。
「いえ、ちょっと、用があって」
精一杯そういうと、またひとつ頭を下げ、おばの横を足早に通り過ぎる。
変に思われませんように!
「じゃあ、またこんど、ゆっくりね」
おばはリビングで見送ってくれた。少し振りかえる。見慣れた笑顔。大丈夫、気付かれてない。
脱ぎ散らかされた靴を履く。足の裏が冷たい。
ばたん、閉めた扉を背にすると、夕方のくもり空がやけに眩しかった。
「はぁっ」
もうひとつ長い溜息をつく。散々な寄り道だった。やっと帰れるよ。
ふと、足元を見る。
どきん。
いまゆうが立っている場所、さっき、ゆうが立っていた場所、扉を叩いて、おばの返事をやきもきしながら
待っていた、玄関の一段高くなったコンクリートの踊り場に、ゆうの肩幅と同じくらいの、
黒い染みが広がっていた。
うそ。もう一度見る。染みのなかに二つ、ちょうどゆうに靴の形に、乾いたコンクリートが覗いている。
これって、まさか、
記憶が一気に巻き戻る。
呼び鈴を押した次の瞬間、下着のなかに熱がはじけるのが分かった。
おばの声が聞こえて、その熱が大きく広がって、扉が開いて、おばに挨拶をして、おトイレ、って。
言った時には、太腿から踝のあたりまで、熱い液体が流れているのが分かった。
まだ出ちゃだめ、でも、止まらないよ。
滴が水流になって地面に落ちる音が、聞こえていた気がする。
これって。
「おもらし、しちゃった」
つい口に出してしまって、ゆうは事態を受け入れる。
おもらししちゃったんだ。
さっきまでは、びしょびしょの下着を前にしても、ちびっちゃった、くらいにしか思っていなかった、
もちろん中学生の女の子にとって、ちびっちゃった、だって十二分に恥ずかしいけれど、大丈夫、
スカートだし、気付かれなければ平気、どこかでそんなふうに思っていた。
でも、これ、あきらかにおもらし。
中学生にもなって。
3年生のあの時、母に何か言われそうで、家に帰るのが怖かった。なんて言おう。わたし、いけないこと
しちゃったの。帰宅した娘の、下衣だけ体操着の姿を見て、察したのだろう。あるいは、先生が電話を
してくれていたのかもしれない。母は何も聞かず、少し困ったような顔をしてから、笑顔で着換えを
用意してくれた。
お母さん、今日はパートでいないんだっけ。
靴下、染み、目立たないよね、太ももやひざのうらもすっかり乾いている。においだって、
たぶん平気。おばさんだって気づいてなかった。だけど。おもらし。下着が重い。とっさにスカートの
おしりがわをにぎる。濡れてはない。
ここから、最寄りの駅まで歩いて20分くらい、それから電車で4駅、これも20分くらい、
そこからバスで30分。どこの駅にだって、人はたくさんいる。電車の中だって、バスの中だって。
どうしよう、胸の奥で、ぐううっと熱いものがかたまる気がした、それが、のどを通って、目から
溢れそうになる。だってしょうがないじゃん、おもらししちゃったんだもん。
どうすればいいんだろ。
そうだ、まず帰ろう、帰らなきゃ。帰るまでが遠足です。なに言ってんだろ。
足は家への一歩を踏み出していた。靴の中がまだ冷たかった。
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