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小学校にあがるころには失敗もほとんどしなくなっていたけれど、
それでも授業中に「おトイレに行かせてください」を言うことはできなかった。
恥ずかしいから、じゃない、だってだめなものはだめ、いまは授業中だもん、
おトイレに行く時間じゃないもん。3年生のとき、ゆうは一度だけ、学校で粗相をした。
遠足の日だった。帰り道、もうすこしで学校、というところで、生徒の何人かが
コンビニエンスストアでトイレを借りた。
どうしてもっとはやくに済ませておかなかったの、
トイレ行きの許可をねだる生徒たちに先生は言った。
ゆうもトイレに行きたかったけど、その様子を見たら、とても行く気にはなれなかった。
学校に帰ってきて、校門で先生が解散の挨拶をしたとき、やってしまった。
あっ、と思ったときにはおしっこがどんどん溢れてきて、お気にいりのズボンに
次々と縦の染みをつくった。周囲の音が消えた。足元の水たまりが這うように
面積を広げていくのを、ゆうはだまって見下ろしていた。
だれかの、ああ、と言う声が聞こえた。静寂の空間から引き戻される。おもらししちゃった、
そう言われた気がするけれど、もしかしたら自分の声だったかもしれない。そこから先は
よく覚えていなくて、先生の後について保健室へ行く時、まだ多くの生徒が遊んでいる校庭を
横切らなければならないのが恥ずかしかった。泣いてはいなかったと思う。
何日かして、おともだちが、「ゆうちゃんもコンビニでおトイレ借りればよかったのに」と、
言った。
「(しかたないじゃん。だって、だめって言われたんだもん)」。
ゆうはこころの中で、繰り返した。
どうしてあのとき、おトイレに行かなかったんだろう、いまだったらもっと早く
おトイレに行くのに、おトイレに行くのに、おトイレ、おトイレ行きたい!
下腹部がずしんと重く、痛みのように感じられる。小学校の思い出がよぎる。
おトイレに行きたい。背中からぞくん、ふるえの波が伝わる。
ちからをいれているところが、じんと痺れるような気がする。
そう言えばあの時、下着の冷たさはそれほど気にならなかった。
ちょっとだけしちゃえば、楽になるかな。
「(わたし、何考えてるんだろ!)」
もどかしさと尿意と、こころのゆるみを振り切るように、ちからいっぱい
踏み出した、一歩。
ぱたん!
自分でもびっくりするくらいの足音が、路地に響いた。はっ、として顔を上げる。
と、少し前を歩いていた大学生くらいのおにいさんが、ぽかんとした顔でこちらを
振り向いていた。よほど大きな音がしたのだろうか。目があった気がした。
どきん、一瞬、息がとまった。
あっ、
下着に熱が広がった。
うそ、あわてて、ぎゅうっと力をこめる。大丈夫、止まってる。
大丈夫、大丈夫、だいじょうぶ、だけど。
一度、出口を見つけてしまった液体は、いままでとは比べ物にならない力で外へ出ようと
流れはじめる。ちびっちゃった、なんて恥ずかしがっている余裕もない、ゆうは気持ちを
一点に集中させた。いそげ!
それからさき、5分くらいだろうか、もっと長かったかもしれない、どうやって
おばの家までたどり着いたのかも、よく覚えてはいない。ぎゅうッ、からだの一点にちからを集中させて、
けれどちからを入れれば入れるほど、濡れ雑巾を絞るみたいに、水滴がにじみ出ている気がして、
はやくはやく、でも走ったら出ちゃいそう、そうっと、はやあるき、でも、じわっ、少しだけど、
出ちゃったかな、ぎゅうッ、集中、しゅうちゅう、でも。
数分の間に、何度同じ過程を繰り返しただろう。ちからを集めているところはもう
麻痺してしまっているようで、こんなにちからを入れているのに、
足を進めると、あっ、また、歩くたびに下着が肌にすれる、
一瞬の温かさと気持ちの悪い冷たさがつたわる。きっとわたし、泣きそうな顔してる、
お願いします、だれともすれちがいませんように、もうすぐだから、はやく、はやく。
乱暴におばの家の門を開ける、それから、もうすこし、もうすこしだから、3メートル、2メートル、
飛び石を渡る、扉の前に立つ、もうすこし、もうすこし、もうすこし、呼び鈴を押す、ぎゅう、
下腹部にちからを込める、けれど、びくん、まるで反発するように、筋肉がゆるみそうになる、
返事をまつ間がもどかしくて、とんとんとん、扉をたたく、じわっ、あっ、また、出ちゃった、
はぁい、と声が聞こえて、ああ、もう、足ぶみする、がちゃり、鍵をあける音がする、だめ、
あっ、あっ、はやく、はやく、はやく、ああっ、内側から数センチ、扉が開く、ドアノブを強引に引く、
びゅう、扉の向うからなま温かい風がゆうに顔にあたる、同時にふくらはぎのあたりまで、
熱が伝わる、まだ、だめ、でも、
「こんにちは、ちょっと、おトイレ…!」
もう一秒だって我慢できないくらいなのに、あたまのどこかが変に冷静で、おばに怪しまれないように、
せいいっぱい落ち着いたふりをして挨拶をする、第一声がトイレ、だなんて、でも、もう
靴を脱ぐ間も待てない、おばの脇をすり抜け、家に駆け込む。途中のリビングに鞄を放り出し、
その先、2メートルほどの板張りの廊下を走る。断続的に、下着に熱が広がる。
もうすこし、もうすこしだから!
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