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子供が3歳なら、親も3歳、一緒に大きくなっていくんだよ、って。誰かが教えてくれた。
「なおくぅん、もうすぐおやつの時間ですよぉ」
薄暗い、と言ってしまうと申し訳ないけれど、決して明るくはないエントランスに、声は響いた。
「なおくぅん、ママ、ひとりでおやつ食べちゃおうかなぁ」
幼児向けテレビのお姉さんのような口調はしかし、似せているわけではない。
吉崎みき。子供を連れていなければ、学生でもじゅうぶん通用するくらいの容姿。
肩ほどまであるやや栗色の髪をうしろで一つに束ね、眉を隠してまっそぐ揃えられた厚い前髪と、小さな顎、
それに、日なたの小動物を思わせるような黒目がちな瞳は、どことなく舌足らずな口調も手伝って、彼女を実際の歳より、ずいぶん幼く見せている。
16時を少し回ったころ、穏やかな日差しがもう少し届かない、マンション1階のエントランス・ホール。
薄ぼんやりとした静けさの中に、いくつかの買い物袋をさげ、隠れるようにベビーカーにもたれる母親と、そのわきで黙々と動く、小さな影。
吉崎直人、3歳になってずいぶん過ぎた、みきの長男。本格的な春の到来に合わせて、
エントランス・ホールに置かれた幾つかのプランターの花々は、少年の興味をつかんで離さなかった。
「なおくぅん、まだ寒いよ、風邪ひいたら、あしたはお出かけできなくなっちゃうよぉ」
「きいろいおはなさんと、むらさきのおはなさんは、きょうだいで、おにいちゃんなんだ」
花々を指さしながら、空想の世界を駆けまわる息子の背中をいつまでも見守っていたい半面、洗濯ものをしまって、
夕食の支度をして、やらねばならぬことを考えると、このあたりが引き上げ時のように思える。
買い物を終えスーパーを出た時の計算では、4時にはおやつも食べ終わって、満腹の直人はお昼寝をしているはずだった。
「なーおくん、お買い物したお魚さん、はやく冷蔵庫に入れないと腐っちゃうんだよ」
答えない。
「お肉さんも腐っちゃうかなぁ」
答えない。
聞こえているけれど、返事をしたくない時の態度。あの手この手、みきは、息子の気を引きそうな言葉を片っ端から考える。
遊んでいる息子を抱き上げて、部屋まで帰ることは容易だけれど、ひとたびこの子がへそを曲げたら、1時間やそこらでは機嫌を直さないこと、
そのためにかかる労力がどれほどのものか、母親はわかっているつもりだった。なんとか、息子が自分から、この場を離れるようにしたい。
「あ〜あ、なおくん、おやつ、食べられないかなァ」
「やだ、食べる」
しゃがんで背中を向けたまま、返事が返ってくる。
あ、食いついた。
「食べるんだったら、おうち行かなきゃ。もうおやつの時間おわっちゃうよ」
「うん」
もう一息かな。
「行こ、はやくはやく」
片手を息子に差し出し、もう片方の手はかけっこみたいに、腕を振るポーズ。
「あ、はなびら、ちょうちょさん」
あちゃ、またそっちにいっちゃったか。
腰をあげた彼は、たたたた、プランターと一緒に飾られた、2メートルほどの桜の枝のもとへと走った。
小さな足音に合わせて、花弁が舞う。
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