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 平日ではあるけれど、さっきから誰も通らない。50世帯ほどが暮らしているマンションで、 みきと同じように小さな子供を持つ家庭も少なくはないのだが、こんな日もあるのだろう。
 手持ちぶさたもあり、みきはさっきから胸の高さほどあるベビーカーを前後させている。合わせて、小さく足踏みをする。
「おしっこ、どうしようかな」
首をかしげる。
 スーパーにいるときから、わずかな尿意は感じていた。けれど、買い物袋を提げたまま、息子を連れスーパーでトイレを 済ませることはなかなか容易ではない。家までは15分ほど、みきは迷わず、帰宅の道を選んだ。
「なおくん、ちっち、平気?」
 花弁を追い、ぴょんぴょんと手を伸ばしている息子に投げかける。
相変わらず静かなエントランスに、子供の息遣いと笑い声が断続的に響く。
 聞こえてるな、ママ、分かってるんだぞ。
「いいもん、じゃあママ、先に行っちゃうから、じゃあね」
そっちがその気なら。
 ベビーカーを押し、エレベーターへと向かう。少しして、背後の笑い声が途切れる。
「や! いかないで!」
足を止めて振り向く。
立ち上がった息子が、口をへの字に曲げてこちらを見ている。
よし、もうひと押し。
「ママ行っちゃうよ、おいで」
「や、行かないで」
「おいで」
こんどは笑顔で、手を差し出す。
「やぁぁ」
すとん。小さなおしりがしゃがみ込む。
こりゃだめかな。
 ここで泣かれると、やっかい。みきは再びベビーカーを押し、息子の側へと戻る。
 おしっこと息子と、どっちが大事なんだ。

 入口のむこうの陽光に、オレンジ色が混ざりはじめる。
みきはまた、花々の世界の住人になってしまった息子の側に腰を下して、首をかしげていた。
 しゃがんでいると、幾分尿意が和らぐ。
けれど、できればなるべく早く、気持ちも軽くしたい。
「なおくん、ママね、ちっちしたいの。いっしょにお部屋帰ろう?」
「いいよ、なおくん、あそんでるもん」
 意を決して、息子にかけた言葉への返答は、みきの予想とは違うものだった。
「なおくん、ひとりで遊んでられる?」
「うん」
みきに背を向けたまま、答えた。
どうしようか、でも。
ちくちくと、下腹部が痛む。
 「もし悪い人が来たら、なおくん、さらわれちゃうかもよ?」
「さらわれるって、なに?」
まずい、なになに作戦か。
「どこか遠いところへ連れてかれて、パパにもママにも会えなくなっちゃうってこと、いやでしょ?」
「うん」
「だから、ママといっしょにおうち帰ろ? ね?」
断続的に、尿意の波が高くなる。ぐっ、気持ちを集中させて、波を乗り切る。
「ママといっしょに遊びたぁい」
また、唇がへの字になる。左右の眉がくっつきそうなくらい近寄って、泣くぞ、のサイン。
「ママも、なおくんといっしょに、おうちで遊びたいな、行こう」
満面の笑顔で手を握る。さ、帰ろう!
「おはなさんもいっしょにいく」
「それはちょっと無理だよ」
「なんで?」
「なんでって、みんなのお花だもん」
高波の間隔が短くなっている気がする。しゃがんだまま、腰を左右に振るような動きが続く。つい、語気が強まる。
「いっしょいきたい」
「わがまま言わないの!」
しまった。つい。
 顔のパーツが真ん中に集まって、×じるしみたいになった目じりから、ぽろぽろと涙の粒が落ちる。
「やぁぁぁあだぁ」
 少しの沈黙のあと、エントランスに、人間の音域より2オクターブくらい高い音が響く。
押すと空気で音が鳴るおもちゃ、たとえば、ピコピコハンマーくらいの音域。もちろん、もっとずっと破壊的な音だけれど。



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