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 ベビーカーの後輪ロックを乱暴に踏む。握りしめていた鍵を取り出す。ぬる、なま温かく、鍵が湿っている。鍵穴に入れようとするけれど、震えがそれを邪魔する。そのあいだにも筋肉は悲鳴を上げ続け、あああ、もう!
 この感じ、知ってる。泣きじゃくる子供を怒鳴ってしまった時の感じ。声をあげる2秒くらい前に、分かる。
わたし、怒鳴る、って。そして、予想通り怒鳴ってからやっぱり、って。それから、もうれつに後悔する。なんでこんなことしてしまったんだろう。子供のおびえた目が、断罪のように、責める。一瞬、気持ちが、折れた。

ぱ、た、た。

 四方八方から力がかかって、きっとぐにゃぐにゃに歪んでいる尿道を、痛みにも似た何かが走った。
 それが下着にぶつかったのかは知覚できなかったけれど、これ、ほんとにまずい。あたまのなかで声が聞こえる。もしかしたら、自分の声だったのかもしれない。
 両手で鍵を抑える、鍵穴にねじ込み、こじ開ける。もう体のどこに力が入っているのか、よく分からない。鍵を抜いて、ドアノブをまわす。いま何をしなきゃいけないんだ。
 まず子供、扉を開け、ベビーカーを引っ張る。ずずッ、そうだ、タイヤロックしたんだ。
 はずす余裕がない。ベビーカーを強引に引き摺って、玄関に入れる。おなかに力が入る。じわり。今度ははっきり、下着が濡れるのが分かった。がつん、入口の段差にタイヤがぶつかる。許せ、息子。ぱたん、扉が閉まる。
 ベビーカーを玄関におき、トイレはすぐ右手。
「なおくん、ママ、トイレ!」
それだけ言うと、ベビーカーの脇をすり抜け、剥がすようにスニーカーを脱ぐ。右が脱げない。後ろにはねあげ、片手でつかむ。つかんだ瞬間、ぱた、た、た、細く、しかし長く、液体が溢れた。
 靴を放り投げると、転がるようにドアノブをつかむ。お願い、間にあって。
ドアノブを引き、個室に駆け込む。ショートパンツを下げようとして、そうだ、コート!
 まくろうか、ボタンをはずそうか、一瞬躊躇した。
一瞬だった、はずだった。

し、し、しわ、ぁ、

 あっ、と思った時には、股の間が温かかった。
それはゆっくりと、下着のなかを駆け回り、上に、横に、飛び散るみたいに広がるようだったけれど、すぐに重力に従い、足元へと落下を始める。
 あれ。
洋式便器におしりを向けて、中腰になって、1秒後には衣類を下して、用を足せる姿勢。
けれど、おしっこが出るのが1秒、早かった。
 気がついたときには、物理法則通り、液体は落下し、それから水平に広がる。

ぱしゃぱしゃぱしゃぱしゃ。

こんなにおっきな音がするんだ。
足の裏が温かい。
 わたし、
時間にすれば、それほど長くはなかったように思う。
尿意からは解放された。
足がまだ、かたかたと震えている。全身が硬直しきって、言うことを聞かない。
 おもらししちゃった。
ゆっくり息を吸う。芳香剤のにおい。
息を吐くと、すこしからだが柔らかくなった気がした。
弛緩に任せ、ゆるり、下を向く。
薄いオレンジの床に、かすかに黄色みを帯びたいびつなかたちの水たまりが広がっていた。
 あれ、わたし、おもらししちゃった。
ええと、いま何をしなきゃいけないんだ。

あ、なおくん。

 中腰の姿勢のままからだをトイレの外に伸ばす。ぴちゃ、気持の悪い冷たさが靴下の裏で動く。片手がまだ、コートのボタンにつかまっていることに気づいて、少しおかしくなった。
彼は、きょとんとした顔で、ベビーカーに座っている。

「あのね、ママ、ちっちでちゃった」

わたし、何言ってるんだろう。恥ずかしいとか、そういうことじゃなくて、何言ってるんだろう。
 「ママ、まってて」
彼は器用にベビーカーから降りると、まだ便器の前でかたまっているわたしの前をととと、と走り過ぎ、となりの、浴室へ消えた。
 ばたん、音がして、彼はピンク色のタオルを持って現れ、わたしの足もとの水たまりを拭き始めた。なおくん、それ、洗面台の手を拭くタオル。
「ママ」
彼が顔をあげる。わたしを見つめる。
「なぁに?」
「えらいね、ないてない」
泣きたいけど、泣けない。
「なおくんも偉いね、いい子いい子」
からだが動く。
あたまを撫でて、抱っこしてあげる。
 「ママ、そのまえにぱんつぬいで。かぜひいちゃうよ」
もっともだ。
 わたしが思うよりも、もう少し大きくなっていた息子を見て、子供が3歳なら、親も3歳、一緒に大きくなっていくんだよ、って、誰かが教えてくれたのを思い出した。
 ママ、3歳なら、おもらししてもいいか。な。
 



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