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 「ごめんね、なおくん。泣かないの。おうちにもおはなさんあるよ」
涙をぬぐうため、片膝をついて息子の顔をのぞく。同時に、反対の足のかかとを、そっと股間におしあてる。
 直人はまだ顔を真っ赤にして、×じるしのまま、ひっくひっく、しゃくりあげている。
「なおくん、おはなさん大好きなんだね。ママ、知らなかった」
 ポケットからハンカチを出して、涙をぬぐう。
はい、鼻かんで。
「こんどパパのお休みの日に、お花畑いこっ」
「うん」
「良い子。さ、行こっか」
「うん」
腰を浮かす。股間からかかとが離れる。ぞく。
台風クラスの高波が襲う。見上げるほどの波がいままさに崩れて、はるか高いところから降り注ぐような、そんな感じ。
 これさえ乗り切れば、みきは腰をよじって、波に耐えた。
 「ママ、だっこ」
うそ。ごめん、いま無理。 たたでさえ中腰で前かがみ、膀胱が、不自然に圧迫され、痛い。
「だっこぉ」
甘えるような声。でも、いま13キロのこの子を抱きかかえる余裕は、正直、ない。
 「なおくん、ベビーカー乗ろう、びゅーんって」
「いいよ」
いいよ、って、そんなに拗ねた顔して。なにさまのつもりだ。
でも、だっこしなくて済むならいい。
はい、自分で乗って。
「のせて」
徹底的に甘える気だな。自分でいつも乗ってるでしょう?
「なおくん出来るでしょ? ママ、知ってるんだから」
「できない、のせて」
また、顔が×しるしになりかける。
分かった、乗せるから。
 ベビーカーの安全バーを解除する。手が震えているのが分かる。普段ならボタン一つ押すだけなのに、うまくいかない。うまくいかないことが、あせりにつながる。
かちゃん、よし、外れた。
 中腰になってからずっと、足踏みを続けている。動くのをやめてしまったら、尿意に負けてしまう。ひざ下までかかる紺のダッフル・コートのすそが、せわしなく揺れている。
「さ、なおくん、乗ろう」
これさえ乗り切れば。
ぎゅうう、ちからを込める。
 息子の両脇に手を入れ、よし、からだを浮かす。息がとまる。ベビーカーに、座らせた。
やったぁ、乗り切った!
 急いでベビーカーの向きを変え、一直線、エレベーターを目指す。
かたかたかた、タイヤが左右に振れている、そうとう焦ってる、わたし。
 エレベーターの上矢印を押す。5階建てのマンションの、エレベーターは3階に止まっていた。
階数を示す数字が点滅する間ももどかしい。はやく、はやく。
 右足、左足、重心を傾けながら足踏みを続ける。括約筋を締めている、と言うより、尿道を何かに掴まれているような、鈍い痛み。足踏みをしている間だけ、痛みが薄らぐ気がする。
 ちん、のどかな音をあげて、エレベーターがやって来る。良かった、だれも乗ってない。
扉が開ききらないうち、ベビーカーごと滑り込む。入り際、右手で5階と、閉める、を押す。
 エレベーターが上昇をはじめる。かすかな浮遊感はしかし、尿意を加速させるには十分だった。もう足踏みではこらえきれなくて、腰を小刻みに上下させる。エレベーターが揺れて、かたかた、音がする。
もうすぐ、もすぐだから。
そう思えば思うほど、おしっこも出口をめがけ、殺到する。
 「ママ?」
 直人がからだを乗り出してこちらを向いた。ベビーカーに伝わる振動を感じたのだろう。
「もうすぐだからね、危ないよ」
似てる、と言われる黒目がちな瞳。子供の前で、わたし、何をこんなに焦っていろんだろう。
 そうだ、いまのうちに鍵、用意しておこう。
コートのポケットに手を入れ、鍵を握りしめる。
 ちん。着いた! だいじょうぶ、落ち着いて。ふるえるもう片方の手でベビーカーのハンドルを握りしめ、落ち着いて、言い聞かせて、籠を降りる。
501、502、だめ、だんだん早足になる。
503、505、筋肉が悲鳴をあげた気がする。
506、悲鳴がさらなる力になって、膀胱を揺さぶる。
もう少し、もう少し、
507、着いた!



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