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「必ず、お相手ご自身に決めていただきなさい。こちらがすることは、
お相手がご自分で決められる状況を作ることです」、
神経質、を絵にかいたような上司の、鼻にかかった声が耳の奥で聞こえて、
みずのはちょっとだけ、おかしな気持ちになった。
彼女は不機嫌に、左手でエアコンのスイッチを切った。ごお、ひとつ音がしてうなりが消えると、
低いエンジン音が耳につく。フロントガラスのむこうに伸びる赤いテールライトの列がしばらく動きそうにないのを確認して、
もうひとつ、息を吐く。
椎橋みずの、小さな企業の事務兼営業。仕事にもこなれてきたOL2年生。
小さな会社だから事務職員と言えども、受け付けに座って電話番だけしているわけにもいかない。
備品の発注や経理の補佐、社内広報の作成から営業まで、手が空いたと見えれば、あらゆる仕事が舞い込んでくる。
お茶が汲めてコピー機が使えればいいや、程度に思っていたみずのの目論見は、入社3ヶ月目には粉々に砕けちった。
まさか、外回り、それも営業だなんて。
みずのを営業に駆りだしたのは、30代半ばの上司だった。小さい会社だし、なんでもやってもらうよ、
その一言で押し切られたのは事実だが、少し年の離れたパート職員から聞いた話は、みずのにとって決して面白いものではなかった。
「みずのちゃん可愛いから、目、付けられてるのよ」
噂よ、うわさ、と言いながら、噂を振りまいているのはパート職員である。そして実際、上司が、
彼女の容姿を営業に生かそうと考えていたのも少なからず事実であった。
170センチを超す長身、すらりと細く伸びた足や首に対し、健康的な重さを感じさせるヒップ。胸は大きい方ではないけれど、
その分ブラウスからのぞく鎖骨の美しさが際立つ。白人の血が入っている、と言っても疑われないくらい透き通った白い肌に、
アンティックドールのようにぱっちりと大きな目、瞳は色が薄く、光の加減によっては緑がかってさえ見える。
額できれいに左右に分かれる黒髪は絹のように細く艶やかで、腰に届くほどの長さ。それを後ろで一つに束ね、
黒いスーツに身を包んだ彼女は、思わず見つめずにはいられない存在感があった。
上司と二人、軽自動車で得意先を回る。場合によっては、地図と電話帳を片手に、新規の客を開拓する。
二人きりの営業。本音を言えば、あまり気持ちのよいものではなかったけれど、根が真面目なみずのは、
上司の営業方法を少しでも盗もうと、彼の一挙一投足に目を配った。
半年が過ぎるころには、みずのはひとりで営業に出かけるようになった。
それから3カ月もすると、顔と名前を覚えてくれる取引先も出来はじめ、彼女はすっかり、会社の顔になっていた。
行く先々で、顔なじみの相手が笑顔で話を聞いてくれる。はじめて面会する相手でさえ、あぁ、あの噂の、
なんて言ってくれる。広い市内とは言え、会社で取引をする相手はだいたい限られているから、少し知名度が上がれば、
たちまち同業者の間には情報が広まる。
仕事が面白い、みずのは、やりがいと満足感を得始めていた、その矢先。
「仕事は楽しいですか?」
昼休み、上司が声をかけた。
「はい、やっと。慣れてきましたし、これからもっと頑張ろうと思っています」
営業を教えてくれた上司に、成長した自分を見てもらいたい、そんな気持ちもあっただろうか、みずのは笑顔で答えた。
「それは良かった」
細い目をさらに細めて、彼は笑う。しかし、わずかに眉をひそめ、続けた。
「楽しいだけでは、仕事は務まりませんよ」
「はい、分かっているつもりです。きちんと数字を残せないと」
「きちんと仕事をすれば数字は後からついてきます。きちんと仕事をする、と言う意味がわかりますか?」
「だから、数字を…」
みずのは口ごもった。これからお昼休みだっていうのに。この人、話しはじめたら長い
んだから。言ってること、よく分からないし。
「お相手に決めていただく、とはどういうことか、もう少し、考えてみてください」
またそれか。正直、そんなことしたって数字が伸びるとは思えないんですけど。てぃうか、ごはん食べたいんですけど。
「あ、お弁当、手作りですね。彩りもきれいだ」
は? なにそれ。デスクをのぞきこむように背を伸ばす彼に嫌悪感を覚える。でも、顔に出しちゃいけないよね。
口を半開きにして、なんとかつくろうとした笑顔が完成する前に、上司は小さく手を振り、遠ざかっていた。
お昼休みが終わったら外回りだ、せっかく意気込んでいたのに。
みずのは少し唇を噛んで、弁当箱をしまった。
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