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人間の能力と言うのは、思ったよりすごい。あれだけパニックになりながら、事故を起こすことなく、会社の駐車場へ車を納めた自分に少し感心した。
すでに、スカートはガラスのように冷たい。
とにかく、エンジンを切る。運転日報を書く。手が震えている、なんて字だ。
それから、ドアを開けて、車を降りる。人気がなく、街灯すら少ない暗い駐車場、普段なら嫌悪感しか感じなかっただろうけれど、今日だけは、だれもいないことに感謝をした。
夜のにおい。ひとつ息を吸ってから、車内灯のオレンジの光が照らす、シートと向き合う。
丸まって、濡れぞうきんのようになったスーツのジャケットをどかす。ベージュ色のシートの座面にくっきり、グレーに変色した丸い染みが浮かんでいた。
わたしのお尻、こんなにおっきかったっけ。手にしたジャケットから、ぽたぽた、滴が落ちて、あわてて車外に引きずり出した。スーツのスカートも、当然びっしょり濡れているだろう。
どうしよう。どうすればいい。
どうにかしよう。コンビニでおもらしするより、はるかにマシなんだから。わたしが、決めたんだから。あ。
「必ず、お相手ご自身に決めていただきなさい。こちらがすることは、お相手がご自分で決められる状況を作ることです」、
神経質、を絵にかいたような上司の、鼻にかかった声が耳の奥で聞こえて、みずのはちょっとだけ、おかしな気持ちになった。
まず、ジャケットを腰に巻く。これだけあったかいんだ。羽織ってなくったってはおかしくはない。
それから、シート。事務所の洗濯機で洗う? でも、洗い終わるまで残っていたら、怪しまれるよね。そうだ。
車に上半身を突っ込こむ。運転席をまたいで、助手席のアタッシュボードを開ける。アンモニアに交って、コーヒーのにおいがする。
よし、あった! 除菌もできる消臭スプレー剤、しかも、なんとかフレッシュの香り。へんにきれい好きの上司に、こころから感謝をした。
これでもか、拭きつける。おしっこの染みを飲み込んで、座面全体に水たまりができるくらい。それでも心配で、そうだ、おしっこの付いた手で、いろいろ触っちゃってる。ハンドル、ドアノブ、アタッシュボードにも、しゅしゅしゅ。
明日は休み。あとはもう、祈るしかない。どうか、明後日、染みもにおいも残っていませんように!
事務所に戻る。上司が一人、奥のデスクにいるのが見えた。この時間なら、もう彼一人しかいないはずだ。
あ、戻りました。それだけ言うと、足早に更衣室をめざす。あ、大変でしたね。渋滞してたでしょう。
言い終わる前に、更衣室へ滑り込む。
片隅に放置してある新聞、よし、足元に広げて、まずジャケット、それにストッキングと下着。くるくる丸めて、ゴミ捨て用のビニール袋、わたし管理してて良かった。新聞紙ごと、放り込む。
それから、ロッカー。置きっぱなしだったスプリングコート。ちょーラッキー。
羽織ろうとして、あ、わたしきっと、すごくおしっこくさいよね。
更衣室を出て、女子トイレへ。明かりをつけて。こんなことに使うなんて思わなかった、お弁当を包んでいた大判のハンカチ、水道で濡らして、お尻と、おまたと、もう一度水ですすいで、拭く。
鏡にうつる、自分の姿。なんだこれ。安いAVか。
制汗スプレーして、コートを羽織って、お土産袋を鞄に詰め込む。大きい鞄で良かった。
あとは、タイムカード。
「大変でしたね、良かったですよ、無事で」
上司が心配した顔で近付いてくる。それ以上寄らないでください。まじで。
「すみません、渋滞に巻き込まれて。ちょっと電話もできなくて」
「お疲れさまでした。ゆっくり休んでください」
「お疲れ様です、ありがとうございました」
よし。
「あ!」
なに!?
「何か、思うところがありましたか? ずいぶんすっきりした顔をしていますね」
「あ、ちょっと、考えることがありまして」
そりゃあ、いますごくすっきりしてますよ。おしっこしてきましたから。わたしが決めて、わたしがやった。どんな結果だって後悔しないんだから。
みずのは小さく口元を歪め、会社を後にした。
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