『体験を通じて』

―1―
 きっと、ほんの些細なひとことに、こんなに動かされることがあるなんて実感できる瞬間はそうそうない。だからなんだ、って話じゃないんだけど、目の前にある白い四角い紙製品を見ながら、わたしは、どこか運命だとか、必然だとか、そんな、ぼんやりと大きなことを考えていた。

「お茶、わたしお出しします!」
 梅雨明けのニュースはまだだというのに、3時を過ぎた西向きの窓からは、つくりものみたいに毒々しい陽光が差し込んでいる。
「あァ、じゃあ、お願いします」
 やや末広がりのボブカットをした、目じりの下がった中年の女性は、颯爽と近づいた眼鏡の少女に、持ちかけたお盆を渡すと、細い目をさらに細くして、窓へと向かった。それから、窓際の席に座られている方に大きな身振りで何かを伝えて、ブラインドを下ろした。
 少女は受け取った長しかくのお盆を両手でかかえ、すきまなく並べられた湯のみ茶碗を一番近いテーブルから配り始める。片手でお盆を持って、もう片方の手で湯のみを、と思ったけれど、さすがに重くて、一度テーブルに置いてからにした。
「暑いですね、どうぞ、たくさん召しあがってくださいね」
 その言葉だけ聞けば、わざとらしく丸めたような声色。はじめは彼女も、上辺だけの話し方のようで好きにはなれなかったけれど、今となってはこれが、あるスタンダードなのだと疑わなかった。
 四本すずみ。両耳の後ろで二つ結びにした茶色がかったセミロングの髪と、赤茶色で四角い太い縁の眼鏡がトレード・マーク。丸みをおびた頬と、ジャージの上からでもわかる肉づきの良い腰や太腿、笑うと真っ先に目がいくだろう八重歯と相まって、人当たりの良さに服を着せたような、中学2年生。
 学校の授業の一環に、職場体験というものがあって、その名の通り、様々な仕事の現場に生徒たちが出向く3日間。アルバイト気取りでコンビニエンスストアやファミリーレストランなんてを選ぶ生徒が多い中、すずみは、学校からそう遠くない、老人福祉施設を希望した。
 自宅から徒歩20分という、立地の良さもあったけれど、母といっしょに年老いた祖母の面倒を見てきた彼女は、お年寄りと接することが決して嫌いではなかった。
「すずちゃん、超やる気だよね」
 抽選に漏れ、望んだ職種に行くことができず、仕方なく福祉施設へとやってきたクラスメイトが1日目の帰り道、半ば感心したように、半ばあきれたように言った。
「わたし、こういうの慣れてるから」
 祖母の夕飯を作り、風呂場でからだを洗う手伝いをし、時にはトイレにも付き添った、よくできた孫娘のひそかな自負があった。わたし、お年寄りと一緒にいるの、嫌いじゃないんです。
 彼女の真面目さと人当たりの良さも相まって、施設の職員の印象も良い。どうせ中学生なんて邪魔さえしなければそれだけでいいよ。多くの職員が口には出さず、なるべく態度にも出さないようにしていた本心だったのだけれど、
「今年の中学生、よくやるよね」
「あの眼鏡の子でしょう? ほんとう、将来うちに勤めてくれないかな」
休憩室の扉越しにそんな声が聞こえたときは、気恥ずかしさと当然です、が入り混じって、なんと言って扉を開けようか、彼女をにやにや躊躇させた。




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