―6―
 扉を閉める。パーカーをほどく。煮出しすぎた麦茶みたいなにおいが上がってくる。パーカーの裏、何箇所か、濃いグレーに変色している。洗わなきゃ。でも、朝から洗濯機まわしてたら、変に思われるよね。生理来ちゃったって言おうか。いや、わざとらしいか。
 ショートパンツを脱ぐ。足に張り付いて、きしきし言う。前の方、空色の生地の下半分くらい、股を中心に、なだらかな三角形に濃いブルー。そのまま浴室に投げる。かちっ。後ろ向きにタイルに落ちて、お尻全体に広がる丸い染みが目に飛び込んで、泣きそうになった。
 ぱんつ。きっと同じように、お尻に染みがあるんだろう。手の中で丸めて、浴室に入る。
 窓があいていて、ひんやりした浴室。シャワーをひねる。お湯があったかくなるまで、洗面器に水を張る。ショートパンツと下着を浸ける。これでひとまず、証拠隠滅。
 シャワーから湯気が立つ。まずおまたと、脚。片手でシャワーを持って、反対の手で太ももをごしごしこする。それから、腰を浮かして、お尻。ごしごし。
 顔を洗おうと思ったけれど、洗面器は使用中。シャワーをそのまま顔に向ける。クレンジングオイル、あ、少ない。お姉ちゃん使いすぎ。
 ばたん、脱衣室で音がする。
とっさに、体で洗面器を隠す。
「かのん、着替え、置いとくから。どうせ寝るんでしょ」
そっか、下半身露出して部屋まで行かなきゃいけないとこだった。
「ありがとう」
顔を流しながら、ぼんやり答えて、

え。

お姉ちゃん、どうして着替え持ってきてくれたの。
わたしが着替えなきゃいけないこと、知ってたってこと?
「それと、洗濯機まわすよ。わたしも洗いたいものあるから」
え。
やっぱり。
お姉ちゃん、気づいてた。

「お姉ちゃん」
言葉が途切れる。瞼が震える。顔を洗ったからじゃない。
「なに?」
お姉ちゃんのぶっきらぼうな声。わたし、わたし、

「おもらししちゃった」

口に出して、涙がこぼれた。
出しっぱなしのシャワーの音が響いている。
「うん」
気のない返事。お姉ちゃん、まだいる。
「お姉ちゃん、聞いてくれる?」
「なに?」
言わなきゃ。今。
シャワーを止める。遠くで蝉の声がする。
「ごめんなさい」
何が。ずっと言えなかった。遠い夏の朝。
「なにが」
浴室の扉、お姉ちゃんがガラスにもたれて、座っている。
「小学校のラジオ体操のとき」
「うん」
「ごめんなさい、わたし、ちゃんと謝ってなかった」
「もういいよ、何年経つの」
お姉ちゃん、ちょっと笑ったように聞こえた。
 わたしがたしか、小学校2年生だったと思う。だからお姉ちゃんは6年生。
 近所の公園のラジオ体操に二人で行って。はんこもらって。お姉ちゃんはちょっと怒った顔で、早く帰ろう、って言ったのに、その日に限ってわたしはすごい道草くって。お姉ちゃんはすごくいらいらした声で、何度も帰ろうって言って、わたしはそれが気に入らなくて、わざとゆっくり歩いたりして。
 おうちに着いたら、お姉ちゃんがあー、って、変な声をだして、家の中に走っていって、わたしは後から、リビングでテレビかなんか見始めて。そしたら、お姉ちゃんが真っ赤な顔をして、お風呂場の方に行って。少ししてお母さんが、お姉ちゃんの服を持ってお風呂場に行って。わたしなんとなく、あ、お姉ちゃんおもらししたんだ、って気がついて。お姉ちゃん、6年生なのに、恥ずかしい。
 それから、お姉ちゃんは何も言わなかったけれど、わたしといっしょにラジオ体操には行ってくれなかった。
 そのうち、中学生はラジオ体操しないんだよって、わたし一人で行くようになって。あの朝のことはだんだん忘れてしまって。でも、夏休みの朝、二人きりの道、お姉ちゃんが走って、わたしも走って、待ってよぉ、吹きぬける風が空まで連れて行ってくれそうで、すがすがしいって、こういうのを言うんだ。

「ありがと、お姉ちゃん」
「うん」

蝉の声が、すぐ外から聞こえた。




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