−7−
「誰かいるのか!」
しわがれた大声が聞こえた。見ると、扉の小さな長方形のガラスの向こうに、ぎらぎらした目が張り付いていた。
「あの、大変なんです、開かないんです!」
 先輩が立ちあがり、扉をたたいた。
 扉の向こうの目は、少し怪訝そうな色を見せてから、ぎし、ぎし、何度か扉をきしませたけれど、やはり開くことはなくて、
「なんだこれ。ちょっとまってろぉ」
べたべたと、遠ざかっていった。
 しばしの沈黙のあと、がぁん、がぁん、耳に悪そうな金属をたたく音が響いて、ぎし、わずかに開いた扉の隙間から、とがった鉄の先端が差し込まれた。
「せーの、」

ばきい、

 乾いた崩壊音とともに、扉が開いた。ひかりが、逃げて行くような気がした。
 グレーの作業服の、用務員の男性が手にバールを持って、仁王立ちをしている。
 ありがとうございます! 先輩が弾かれたように、深々と頭を下げて、外へ飛び出した。
「おめぇもはやく帰れ!」
「あ、ありがとうございます!」
 僕は慎重に立ち上がる。ぴしゃ、たぶんズボンのどこかに残っていたおしっこが、滑り落ちた。
 僕はなるべく水たまりを踏まないようにして、部屋を出る。用務員さんは気づいていないのだろうか。目線を下げたら、かえって怪しまれるような気がして、僕は赤茶色の顔を見つめたまま、それも笑顔で、通り過ぎた。
 彼は素早く電気を消し、こんなもんが挟まってやがった、と、割れたボールペンの大きなかけらを拾い上げた。
「なんだぁ?」
彼は、破片を持ったまま、ごしごし、指を作業着の膝にこすりつけた。
 濡れていた。
 肺から一気に空気が抜かれたみたいな息苦しさ。とっさに僕は足元を見る。僕の靴のかたちに水滴が床に散らばっている、僕は息を殺しながら、ひっそり、靴の裏で水滴を踏みつけた。
「早く帰れぇ」
 彼はもう一度そう言うと、部室の扉に鍵をかける。それから、ポケットに破片を突っ込んで、隣の部室のノブを回し、施錠を確認した。

 僕は小走りで、建物を出る。コートの下の濡れた衣類が、夜気で凍りつくようだったけれど、大丈夫、外からは見えなかろう。
 それから、先輩を探した。
 もう行ってしまったのだろうか、見つからない。おもらしのことに触れなかったのは、彼女の優しさかもしれない、それとも。

 おしっこで濡れた制服をクリーニングに出すことはできなくて、かといって家で洗濯できるとも思えず、消臭スプレーをおもらしみたいに吹きつけて、普段通り自室のラックにつるした。
 そのせいか、ベッドに入ってもおしっこくさい気がして、だからだろうか、とても都合の良い夢を見た。
 夢の中で、僕と先輩はまた、閉じ込められていた。景色はみな灰色で、どこかも定かではなかったれど、たぶん、間違いなく、あの倉庫だろう。
 おしっこを我慢していたのは、僕でなく先輩のほうで、ぎゅっとひざをかかえて耐えているであろう先輩を、僕は祈るような気持ちで、ただ見つめているだけだった。
 やがてしかし、先輩は失禁をする。段ボールのかげに隠れて見えなかったけれど、確かに先輩は失禁をした、そう感じた。
 僕は、満足感と罪悪感で目を覚ます。まだ夜中だ。
 それからすぐに、罪悪感のほうが何倍も大きくなって、無理に息を吐き出して、目を閉じた。
 明日、こっそり部室に行かなければいけない。粗相の痕を隠蔽しなければ。いや、それとも。
 あるはずのない、もうひとつの水たまりのことを思い、僕はきつく目を閉じた。瞼の裏の灰色の闇に、蛍光色の不可解な文様が、いつまでもうごめいていた。



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