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-6-
先輩が泣いている。
 心臓がしなるように、胸のなかをはたいた。好きな人のために、何か、できないのか。何かしたくて、何もできなくて、苦しい。
「先輩、大丈夫ですよ。なんとかなりますよ!」
 声が、流れだしていた。
先輩が僕のほうを向く。涙のしずくは見えなかったけれど、その細められた瞳は、蛍光灯の光を反射して、いや、蛍光灯よりもっと、光っていた。
「高倉ぁ」
 甘えた子犬のような、声。顔は僕のほうに向けたまま、少しうつむいて、肩が小さく上下しているのが分かる。もし、僕の下半身が濡れていなかったとしたら、ドラマのように彼女を抱きしめていただろう。
「大丈夫です」
もう一度、僕は言う。何の根拠もないけれど。いついかなる時でも、たとえ、おしっこが漏れそうでも、僕はあなたを守ります。
「うん」
先輩が、瞳をぬぐう。やはり作り物のような、細い白い指がよぎる様は、美しかった。
「高倉、強いね」
「そうですか?」
「わたしひとりだったら、ぜったいもっとパニくってたと思う」
「そんなことないですよ」
「もうちょっと、待ってみよう」
「ええ、そうしましょう」

 もうちょっと、と言う時間は、僕にはもう、残されていなかった。温かな沈黙が訪れたとき、僕は、自分の限界を悟った。
 意図的に弛緩させたわけではない。むしろ、緊張させ続けていたつもりだった。けれど、おしっこは止まらなかった。
 両足のあいだが熱くなって、それから、すぐにおしりのほうまで熱くなった。熱い、冷え切った足の先でお風呂に入るときのような、熱さ。

ちゅ、ちゅ、ちゅいいい、い、

液体の流れる音が、確かに聞こえた。
 僕は、どこを見るわけでもなく、けれど、金属の本棚の一点を見つめて、おしっこの熱を感じていた。先輩は、僕を見ているだろうか。きっと気がついているだろう。僕も、先輩のように泣きたいと思った。けれど涙は流れなかった。
 きっと、いままでの人生で一番長く感じたおしっこだっただろう。さっきまであんなに熱かったのに、いまは、冬の冷気よりも冷たく、布地が肌に張り付いている。目を落とす。ズボンの足のあいだが、濡れて、蛍光灯のひかりを反射していた。水たまりは、砂っぽい床の上に、僕を中心に、腕を伸ばしたよりも広くひろがっていて、その所々の端は、放置された段ボール箱の底面を、黒く変色させていた。
 先輩は、僕を見ているだろうか。僕は、彼女のほうを向くことは出来なかった。温かい沈黙が、続いていた。



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