『知らないひと』
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「だからさ、ザビエルとかが日本に来てるのは、プロテスタントの影響があるのね」
このひとは何を言っているんだろう。ここはわたしの家だ。ここはわたしの部屋だ。わたしの椅子、わたしの机、けれど、知らないひとがいる。
わたしは、何をやっているんだろう。知らないひとと二人きりで。どうでもいい話を。いや、きっとどうでもよくはないのだけれど、別にわたしの人生にそんなに関係のない話を。こんなに、おしっこ我慢しながら。
「こんにちは、よろしくね」
その日、見たこともないお姉さんが目の前にいた。夏休みに入って1週間目の、むせ返るように暑い日のこと。柴田あや、は、まだどこかぼんやりと、まるで自分のことではないみたいに、目の前で事実が転がっていく様を見つめていた。
ことの発端は、期末試験の成績で、特に歴史が壊滅的だった。歴史以外も決して芳しくはなく、けれど、どうせこんなもんでしょ、と悪気なく見せた順位と点数に、母親の表情は音もなく凍りついていた。
あやちゃん、知り合いのお姉さんに家庭教師頼もうか。ね? そうしよう?
べつにいいよ。
あやちゃん、高校行くんでしょ? だったらもうちょっと成績上げなきゃ。
なんとかなるよ。
なんとかなるじゃなくて、なんとかするの。お母さん、ちょっと話してみるから。いいね?
べつに、いいよ。
たしかに、そんな話はした。どうでもいいよ、けれどそれが、あやの本心で、さらに言えば、まさか本当に、母が家庭教師を頼んでいるなんて思いもしなかった。だってわたし、いいって言ったじゃん。
あやちゃん、来週の日曜日、お願いした家庭教師のお姉さんが見えるから。部屋、片付けておくのよ。そんな話でさえ、右から左、自分のことでは無いような気がしていた。
そしてその日。目の前にいる、見たこともないお姉さん。
よろしくね、ばしばし鍛えてやって。変な身振りを交えながら、大袈裟な表情する母親。そうか、どうでもいいところで、異様な行動力を発揮する、このひとはそういうひとだった。何、家庭教師って。いいって言ったじゃん。ちょっと、キレといたほうが良かったかな。
「はじめまして、わたし、丸山さきこ、って言うの」
母親に案内されて、彼女はわたしの部屋に向かう。わたしはその後ろをついて行く。途中母親は、どこからか用意されていた折り畳み式の木の椅子を抱えて、わたしの部屋に置く。
じゃあ、よろしくね。母親が扉を閉める。彼女が挨拶をする。わたしもなんとなく挨拶をして、それから、わたしの椅子に座る。くるくるまわる、臙脂の布張り、よくある事務椅子。彼女はわたしの90度左隣。香水だかシャンプーだか、知らない匂いが流れてきて、なに、これ。わたしの部屋、どうしてこんなことになってるの。
彼女は、椅子の脇に置いた黒いぬめぬめしたトートバッグから、ノートや筆記用具を取りだす。
「そしたらあやちゃん、こないだのテストの復習からしようか。問題、ある?」
あ、はい。胸の中に生ぬるい違和感を抱えたまま、わたしはがさごそ、部屋の隅っこにほったらかしたプリントの山をあさる。あった、社会。これです。視線を下げたまま、手渡す。
彼女が目を通し始める。わたしは横目でちら、と彼女を見る。白い開襟のノースリー、黒のひらひらしたミニスカート、太めの金のブレスレット、栗色の、ウェーブのかかった髪は、肩のあたりまである。
ザ・女子大生。わたしのイメージだけど。
「とんとん、失礼しまーす」
わざととぼけたような、母親の声。やめてよ、みっともないから。扉が開いて、氷の浮いた麦茶のグラスを二つ載せて、母親がやってくる。
「丸山さんは○○大学に通っていてね、先生になるお勉強をされているのよ」
グラスを置きながら、母親が言う。彼女は顔をあげて、笑顔で応えている。まじめにやりなさいよ、先生困らせちゃだめよ、そう言って、また部屋から出て行く。わかったから、もういいから。
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