『20時の図書委員長』
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きゃあ、と声を出したかどうかは定かではないけれど、たぶん10センチくらいは、両足が宙に浮きました。別に、怖かったわけじゃないんです。ただちょっと、驚いただけなんです。それで、きゃあ、って、言ってしまったかどうかは分からないけれど、けれど、おしっこは、確かに、出てしまいました。
「今年度も下半期に入ります。貸出数の伸び悩み、期日までの返却率の悪さ、それに本の扱いの粗雑さは相変わらずです。年度内にどこまで解決できるかは正直分かりません、ですが、先ほど申し上げた問題を解決するための具体的な策を、引き続き話し合い、また、可能な範囲で実行に移していかなければいけません」
窓からすぅっと、冷たい風が入ってくる。9月に入り、雨が続いていたせいか、夏はもう、すっかりどこかへ行ってしまった。
もうすぐ19時半、クラブ活動や委員会活動も終了しなければならない時間。がらんと広い図書室だけれど、蛍光灯が点いているのはカウンターのそばの2列分だけで、その青白いひかりの下、計9名の少年少女が、長つくえを挟み座っている。
まん中に座り、ときおり手元のノートに目を落としながら、会議を締めくくる言葉を述べるのが、図書委員長、山峰しづか。
こしのある黒髪を頭の後ろで一つに束ねたポニーテールが、あたかも彼女の芯の強さ、あるいは頑固さをあらわすみたいに、蛍光灯のひかりをつやつやと波打たせている。
束ねきれなかったサイドの髪が、彼女の話す様にあわせて顎の下あたりまで落ちて、それをトレードマークの黒縁めがねのテンプルと耳の後ろにはさむ仕草は、「山峰委員長のポーズ」として、他の図書委員やクラスメイトが、彼女の口調や発言とともに、ときに少しの悪意を込めて、しばしば真似するものである。
「早急な解決を求めるのではなく、しかし僅かづつでも構いませんから、問題の、根本的な解決を考えていかなければなりません」
ノートや筆箱をしまおうとしていた数名、正確に言えば、彼女以外の8名は、再び紡がれた彼女の言葉に、顔を上げる。顔を上げるけれどしかし、手は止めない。
ちら、と、白いブラウスの袖口から覗く腕時計に目をやり、同時に委員長ポーズをとりながら、彼女は短く息を吸うと、
「次回の会議では、もう少し具体的な話ができるといいですね。では、今日はこれで終わりにいたしましょう、お疲れ様です」
、軽く、頭を下げる。ふわり、音もなくまた、髪の束が落ちた。
かたかた、かたん。荷物をまとめ、お疲れ様です、お先です、ひとり、ふたり、そして数名で、図書室を後にする面々。
「先輩はまだ帰らないんですか?」
つくえにまだ広げられたままになっている彼女のノートを見やって、最後の一人となった学生服の少年が声をかけた。
「すぐに帰りますよ、もう、学校も閉まる時間ですからね」
他のメンバーを見送るように立ち上がった彼女は、すこしからだを左右に揺らすようにしながら、答えた。
「うす、あまり遅くならないように」
「ありがとう」
「じゃあ、お先しまーす」
少年が去る。図書室から一瞬、音が消える。
他の校舎にはまだきっと、部活帰りの生徒がそれなりの数いるだろうから、もう少しにぎやかだろう。しかし、図書室があるのは、道路を挟んだ隣の建物で、いくつか教室はあるのだけれど、普段は使われない特別教室ばかり、日中であっても、高校生が過ごしているとは思えない、奇妙な静寂が住まわっていた。
ましてや、今は夜。19時半を少し回ったころ。ときおり道路をゆくトラックか何かの唸り声と、配管か何かだろうか、水が流れるような言葉にしがたい音が断続的に聞こえるほかは、まったくの、無音の場所。
蛍光灯を白く反射する、走り書きの溢れたノートを閉じる。靴の裏が床に擦れる音が、まるで世界の唯一の音であるかのように、彼女の耳に届く。
けれど、この時間にも、この静寂にも、もうすっかり、彼女は慣れた。
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