『ハロウィン・ナイト』

−1−
 こうなると意外と冷静なもので、腹圧をかけ排泄を後押ししようか、それともなるべく小出しにしようか、などど考えたりして、とにかく公衆の面前での失禁と言う事態が避けがたく目の前にある以上、あとはいかに排泄を悟られぬようにするか、と、それと。
 それと、僕はそっと、じっとりと汗をにじませながらそれでもまだ重ねられたままの指先を絡ませるように掴んだ。視界の隅で、先輩はちらと、僕のほうを見た。ステージの極彩色の照明のせいか、彼女の瞳は、怪しげな光を放っているようにも見えた。

「ふふ、なるほどね」
 ホテルの一室。洗面台の鏡を覗き、彼女は慣れた手つきで、目蓋を黒く染めていた。
 その後ろで見よう見まね、僕もアイシャドーと言うやつを塗る。案の定、パンダ、いや、バラエティ番組のコント出演者のようになって、しかたなく指で拭ってはまた塗って、何度か繰り返しているうちに、それはそれで、ゾンビのような顔になった。
 自前の黒のワイシャツに、最近買った黒のワイドパンツ、量販店で調達したドラキュラマントを羽織って、結果オーライなゾンビメイクを完成させた青年の姿を鏡越しに見ながら、彼女は呟く。
「似合ってるよ」
「あ、ありがとうございます」
 それから手を止めることなく、カーラー、ビューラー、チーク、リップ。白いレースに縁どられた黒の化粧ポーチから次々と愛用のメイク道具を取り出し、重ねる。4つ並んだ丸い白熱灯のひかりに浮かびあがるのは、雑誌の表紙になってもおかしくなさそうな、ロリータ・メイク。
 普段の薄化粧も、抜けるように白い肌のすっぴんもきれいだけれど、ゴシックロリータをまとう先輩はまた、格別、きれいだ。お付き合いを始めて半年以上が過ぎたけれど、見飽きるということがない。鏡越し、目をそらせないまま、高倉ゆうと、は思った。
「いま何時?」
 視線に気づいているのか、彼女、黒沢そう、は鏡を向いたまま小さく口を開いた。
「ええと、7時半ちょい過ぎです。すません」
 スマートフォンに目を落とす。
「謝るんだったらしなきゃいいのに。」
 口のわきに縦線と横線を引きながら、彼女は言う。あれだ、口裂け女。
「すません。あの、何か、準備しておくものとかあります?」
 気まずい、けど、完成に至る過程が気になって、ちらちら、目線をあげる。
「ううん、わたしは平気」
「うす、了解」
「お待たせ、さ、行こうか」
 ポーチを、やっぱり白いレースに縁どられた黒のハンドバッグにしまって、彼女が振り向く。
 対面して、思わずため息、いや、息をのむ。
 白熱灯の光を背後に受け、淡く栗色に輝く毛先が、ふわりとふくらんだ肩の中ほどで揺れる。チョーカーの下、わずかにのぞく唯一の素肌、胸元が白くまぶしい。そこから下は、見事に真っ黒。編上げのコルセットの金具だけが、ときどき、ちらちらと光る。歩くたび、幾重にも重なるロングスカートのドレープが、シルクの光沢を波うたせて、その全身、いたるところに、黒のレースと、黒のサテンのリボンがあしらわれていた。
 黒嘘姫の本気、そんな言葉がよぎる。
 いや、これこそが黒嘘姫である彼女の本質で、平素青年の目に映る小柄な女性こそが仮初であるのだ、いやいや、黒沢そう、という肉体に秘められた精神の可能性、すなわちその意味において、精神が肉体を凌駕する顕現、僕がお付き合いをしているのは、黒沢そう、であって黒嘘姫ではない、というアンビヴァレント、
「明かり、消してきて。あと鍵、よろしく」
「うす」
 そんなところも含めて、先輩が大好きです。



←Top 次→