『水源のアリエ・第1話』
ー1ー
「我が校は、100年にも及ぶ伝統を持ち、国内はもちろん、世界にもその名をはせる名門であることは、皆さんもよくご存知のことと思います」
ややかすれた、しかし決して柔らかくはない声の主は、教壇に立つ、淡いブロンドの髪を頭頂部にぴったり沿わせて首のうしろでひとつに束ねた、中年の女性教師。まだ少し寒さをはらんだ朝のひかりが大きく開いた窓から流れ込み、20人ほどだろうか、白いブラウスの生徒たちは、整然と並ぶ長机に倒れ伏したい欲求を抑えるのに必死だった。
「我が校で学ぶということは、単に優秀な魔道士となるだけでなく、知性と品位を兼ね備えた人物となると言うことであると、ゆめ、お忘れにならないで下さい」
授業の度に聞かせられるこの立派な演説は、もはや生徒にとって子守唄でしかなく、いや、あの話は眠気を誘う魔法で、実は魔法への耐性をはかるための試験なのだとか、まことしやかに囁かれている。
「人々に信頼され、また、憧れ、希望となる魔道士となり、人々に貢献できる人物となること、皆さんがここで過ごす日々は、その一歩なのです」
きゅうっ、
教室の一番後ろ、長机から離れた壁際、それも、教室の出入口に最も近い場所に、ぽつん、簡素な、ひとりがけの木の机が置かれている。
そこに、少女がひとりで座っている。
彼女は、その白い指を机の下、すなわち自身のふとももの上でぎゅっと握り、他の生徒が耐えている生理的欲求とは異なる欲求に抗っていた。光沢のある濃いグリーンのプリーツ・スカートに寄るいくつもの皺が、指の握られる強さを、まざまざと見せつける。
「そもそも、我が校の門をくぐった皆さんは、魔法というちからに恵まれた、いわば、選ばれた皆さんです」
なお、教員がまとう、よくなめした皮のような光沢の、深い茶色のローブのすそをゆっくりと揺らし、演説は続く。少女は唇を真一文字に結ぶ。まるで未知の植物のように細く、つややかで、透きとおった透明の髪は、春の陽ざしに、山奥の湖を思わせる色に反射し、金色のピンで留められた前髪からのぞく、指と同じく、真っ白な額には、じっとり、汗がにじんでいる。
机の下の手が、ゆっくりとほどかれ、指先が震えながら、机の上に顔を出そうとして、しかし本来挙げられる場所までとても届かずに、すぐにまた、戻される。
「その恵まれたちからを、人々の暮らしを豊かにするために用いること、それは、魔法使いと言うあなたがた選ばれた人間の、定めとも言えるでしょう」
語り始めた時となんら変わらぬ、乾いた、規則的な抑揚の声、すでに何人かの生徒は、頬杖をつき、こくり、こくりと魔法にかけられている。
少女の脚が震える。きっと、彼女のすぐそばにいたのなら、その震えが机を揺らすかたかたという音と、噛みしめられた奥歯から、それでもあふれてくる、苦しげな息づかいが聞こえただろう。
「あなたがたのちからを、人々のために。そしてさらに、信頼され憧れられる魔道士となるために、あなた方の日々の学びが」
ぱたっ、ぱたっ、ぱたたたたた、
少女はまだ、唇を結んだまま、けれど、その足元から響く水音を、もはや抑えることはできなかった。
「先生、オーデルさんが」
遠慮がちに、演説を遮る声。オーデルさんが、またおもらししてます。しかしその事務的な報告は、言葉にされなかった内容の続きまで、語っていた。
「もぉ! またぁ!?」
ひとり、なまぬるい沈黙に臆さず、声をあげる少女がいる。いちばん前の席に座っていた赤い眼鏡の彼女は、ぱっ、と席を立つと、短いスカートのすそを揺らしながら、長机の間を教室の一番後ろへと駆ける。
「おトイレ行きたいなら、勝手に行けばいいじゃない! ほら、早く立って!」
首筋の少し上で、柔らかい栗色の毛先があちこちに揺れる。あたまの左側にひとつだけ結ばれた毛束をぴょこんと跳ねさせ、彼女は細い腕を、まだ座ったまま俯いている少女の脇の下に差し入れると、引っ張りあげるように、立たせた。
「こっちはわたしが拭いておくから、ありぃはすぐに着替えてくる!」
両手で少女の背中を押しながら、教室の外へと追いやる。ありぃ、と呼ばれた少女は、とつ、とつ、きっとまだ震えているだろう足で、廊下へと消えた。
これで何度目?
さぁ? いちいち数えてらんないし。
「では、前回の復習から始めます。教書は『魔法基礎論』、72ページ、魔法史概論の18行目を」
教壇の女性は、ちら、と出入り口を見やり、一呼吸置いてから、演台に置かれた、分厚い本を取り上げた。教室のあちこちで、ばさばさ、ページをめくる音が響き、それに交じって、ほら、始まるよ、起きなよ、そんな囁きが交わされた。
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