『ドッペルコンツェルト』
ー1ー
「だからさ、今の二小節は、もう少し跳ねるような感じを出してよ」
ため息をついてから、の早口、だめ出し。彼の少し鼻にかかる、高い声。わたしは、はい、小さくうなづく。
「楽譜に書いてあるよね、もう一回」
はい。また、小さくうなづいて、楽器を構えなおす。左のあごの下、しっとりと汗に濡れたハンカチが、張りつく。
同じ個所を弾くのは、もう何度目だろう。イメージは分かっているんです、でも、うまくできない。
弦を押さえる左の指先、痺れるような痛み。豆になっているか、あるいはもう、つぶれているか。
彼、渡部くんは、演奏がうまい。1年生の中でももちろん中心的存在だ。普段はあまりしゃべらないし、しゃべったこともない。けれど演奏のことになると、真剣で、感情的で、恐いくらい、っていうか、恐い。
「ストップ」
ため息、からの、
「もう一回」
、ですよね。
秋の文化祭まで、一カ月を切った。記念講堂を貸し切って行われる管弦楽部の演奏会は、花形の出し物のひとつだ。当然、練習にも熱が入る。
けれど、わたしたち管弦楽部の出し物はそれだけではない。学園祭の、演奏会以外の時間、校内のあちこちで、部員が散発的に、演奏を行う。演奏会の宣伝が目的なのだけど、ここぞとばかり、得意な曲や、流行の曲なんてを披露する仲間がいる。
わたし、清水しおりは、渡部くんと二人で、演奏をすることになった。そして今、二人きりで、練習をしている。
二つのバイオリンのための協奏曲。渡部くんが第一バイオリンで、わたしが第二。第二の方が簡単だそうだけれど、今のわたしのレベルでは、正直、難しい。
小学4年生からバイオリンを始めて、ちょうど6年が経つ。それなりに弾ける、と思っていたわたしは、たぶんかなり珍しい、高校の管弦楽部に、よろこんで入部した。
練習は大変だけど楽しいし、何より、みんなで一緒に弾けるのが良い。定期演奏会には卒業生なんても加わり、ちょっとしたオーケストラだ。
渡部くんが、楽器を構える。わたしも構える。ちら、と彼の横顔を見る。細められた目、眉間のしわ。ぴりぴり、というか、いらいら、が無音の音になって、空気を震わせている。
わたしはくちびるを結ぶ。そうしないと、胸の中の弱音が、あふれてしまいそうで。
すっ、鋭く息を吸い、彼の音が響く、続けて、わたしが弾く。音を追い、指先に切られるような痛み。もう、何度目だろう。
「ストップ」
二小節弾いて、彼が手を止める。
「もう一回」
間髪いれず、次。くちびるを噛む。鼻の奥で、酸っぱいような味がする。だめ、弾かなきゃ。
立ちっぱなしの膝。力まないように、姿勢が崩れないように、太もも、足のうら、体重のかかり具合を確認する。もう1時間はずっと、こんな調子。大丈夫、今までのレッスンだって1時間だったんだから。平気、へいきだから。
額を汗が流れる。
「ストップ」
また、同じ二小節、同じところ。彼は左手に弓を持つと、机の上のペットボトルの水を、ぐい、と飲んだ。
「楽譜、読んでるよね」
「はい」
「じゃあ、弾けるまで練習するだけだよね。もう一回」
できない、できない、できない。分かっているのに。指がついていかない。音程に気を取られれば、弓が流れる。できない、できない、できない。
弓を持ったまま、額の汗をぬぐう。ぬるり、前髪がまとわりつく。
もう、ずっとトイレに行っていない。
最後に行ったのは、お昼の授業のあと。今日は演奏会用の曲を練習するはずだったのだけど、メンバーの都合で、バイオリンは各自での練習になった。
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