ー2ー
「清水さん、これなんてどうかな」
 2週間前、渡部くんがこの曲の楽譜を持ってきた。どうせ一緒に弾くなら、かっこいいやつ、やろうよ、って。
 ゲリラ演奏(って言うらしい)をひとりでやる勇気はなかったから、渡部くんが声をかけくれたときは、すこし嬉しかった。普段の練習でも、渡部くんは、先輩や先生にも、自分の意見をはっきり言う。1年のくせに生意気だ、そんな声を聞いたこともあるくらいだけど、でも、本当にバイオリンがうまくて、なんて言うのかな、正確なのに、すごく情熱的っていうか。渡部くんの音、わたしはすごく好きだと思う。
 彼と練習したら大変だろうなって、あたまでは分かっているつもりだった。でも、自分のレベルアップにもなって、渡部くんの音も聞いていられて、ちょっとラッキー、なんて。
 甘かった。
「もう一回」
 いらいら音が、押し寄せてくる。
「はい」
 小さくうなずく。
 力んじゃだめ、からだを小刻みに上下させる。つぷ、つぷっ、おなかの中で液体が振られて、不機嫌そうに主張を始めた。
「ストップ」
 また、まだ、同じところ。
 彼はもう何度目か、机の上のペットボトルに手を伸ばし、でも空っぽで、ちっ、舌打ちが聞こえた。胸の中から弱音があふれそうになって、だめ、だめだから、くちびるを噛む。
「お客さんはさ、一回しか聞いてくれないんだよ」
 やや甲高い、渡部くんの声。天井を見ている。目線が、合わない。
「ひょっとしたら、僕たちの演奏を聞いてくれるのは、一生に一回かも知れない」
 はい。
「だからさぁ、中途半端なもの聞かせたくないんだよ」
 ちら、わたしを見る。細められた目、眉間のしわ。恐い。肩が強張る。
「厳しいこと言うけど、妥協したくないから。清水さんなら、できるって思ってるから」
 はい。肩がまだ変に上がったまま、うなづく。
 分かってる、分かってるよ、でも。できない!
「もう一回」
 指先が、ずきずきと痛む。ブラウスの下、背中がべったり、汗でぬめる。
 おなかの下で、液体がふくらんでいる。きゅううっ、気をつけをするみたいに、脚を突っ張る。悪い姿勢だって分かる。けど。
「ストップ」
 彼が楽器を構えて、
「姿勢が悪い、力みすぎ」
 いちばん見られたくないものを、見透かされたようで、ぎぃっ、奥歯を、噛んだ。
「もう一回」
 けれど、彼はまた楽器を構える。短いブレスのあと、音がひびく。弾かなきゃ、わたしも。
 ちり、ちり、ちり。弦が空気を震わし、空気がわたしを震わせる。震えが、おなかの中で増幅され、暴れる。だめ、正しい姿勢。地に足をついて、上体を乗せて。でも、おなかのなかのかたまりが許してくれない。まるで重たい回転する金属だ。からだが勝手に、振り回される。
「ストップ、もう一回」
 息を吸う、のどの奥で、吸気が震える。だめ、外に出しちゃだめ。弱音を吐かないって決めたから。バイオリンを弾いているときは。渡部くんの前では。



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