ー6ー
「その恰好じゃ外には出られませんね。バケツと雑巾はわたしが持ってきましょう」
男は、するりと部屋を出た。格好、視線が落ちる。スカートの前、いびつに色を変えて、きっと後ろには、もっと大きな染み。その先の足もと、思うよりもずっと広かった水りのなか、ひとりぼっちのわたし。必死でベストな選択肢を思考する。でも、トゥルーエンドは、あるのか。
がちゃり、扉が開く。びく、振り向く。彼だ。バケツと雑巾を片手に提げている。彼はそれをわたしにさし出す。わたしは、受け取る。
「すぐに、拭きますので」
うつむいたまま言えた。しゃがんで。雑巾で水たまりを拭う。濡れて、冷たくて、硬くなったスーツがきしむ。これ以上ないくらい恥ずかしい姿を見られてしまったのに、しゃがむとき、スカートのなかを見られぬよう気にする自分が、おかしい。
拭って、バケツの中でしぼって、ぽちゃぽちゃ、濁った液体が、バケツの底をたたく。おしっこのにおい。手、洗いたい。しゃがむたびに冷たく、布地がふとともにまとわりつく。くしゅ、パンプスから音を立て、液体がこぼれる。
何度か繰り返しているうちに、床の水たまりはわずかな跡だけを残し消えた。バケツのなか、数センチ、溜まった、これは、わたしのおしっこ。きゅうう、きゅう、言葉にならない感情。
「終わりました。ご迷惑をおかけしました」
それだけ言えた。わたしはこれからどうしたらいい、でも、
「あの、」
「なんですか?」
「もう一度、きれいな水で拭きたいのですけれど」
「分かりました。扉を出てすぐの所が洗面所です。使ってください」
扉の向こう。空想の、たくさんの視線。バケツを手にし、ぐっしょりスーツを濡らしたわたしに突き刺さる、たくさんの。吐き気がした。歩きだそうとして、ふうっ、目の前が本当に、真っ暗になる。
ぎゅっ
、わたしを包む、大きな手。
「もう、いいですか、先輩」
彼が、不意に顔を歪めた。いや、笑っているようにも、泣いているようにも見えた。
んん、そんなにくっついたら、君までおしっこくさくなっちゃうよ、ゆぅくん。
「ああぁ、すごい嫌、面接。やっぱりやらなきゃよかった」
「先輩、けっこう乗り気だったじゃないですか!」
シャワーを浴びて、着替えて、ふたりで、ソファ。
彼女はソファの上で体育座りをしていて、白く伸びる足が、まぶしい。
「模擬面接やろうって言いだしたのはゆぅくんじゃん」
こつん、小さな頭が肩にぶつかる。
「それは先輩が、面接嫌だって言うから、せめて」
「だって嫌なものは嫌だもん。面接中におもらししちゃうかもしれないし」
「普通はしませんよ! てか俺、まじびびったんですけど」
「だってしたくなっちゃったんだもん。それに、ネット見ると、けっこういっぱいあるよ。面接でおもらし」
「大丈夫ですよ! てか、なんでそんなの見てるんすか」
「面接のこと調べてたら出てきてさ」
「いや、だからって」
まぁ俺も、就職、面接、おもらしで検索かけたことあるけれど。
「ああぁ、やっぱりやだ! 就活とかしたくないー」
「そうかもしれませんけど。先輩だってこのままじゃまずいって、分かってるんでしょ?」
だから、ストレスで。
ひゅうう、風が抜ける。
「寝室、窓閉めてきましょうか。そろそろ換気もできたでしょう」
「やっぱり、部屋、くさいよね。タオルケットとかにも染みちゃってるのかなぁ」
「どうですかね。一枚ずつ、くんくんしてみます?」
「やめて、恥ずかしいから」
「すません」
「ねー、仕事しないでお金欲しいんだけど」
当分、おねしょはおさまりそうにないかな。このまま続くようだったらどうしようか。シーツや、敷布団までの濡らすようになったら、洗濯はどうする。もしかして、おむつ、してもらうとか。
彼、高倉ゆうとの脳裏をよぎった甘美な妄想はしかし、彼女の言葉に遮られる。
「ねぇ、ゆぅくんも模擬面接やろ。わたしが面接官やるから」
「は?」
「とうぜん、水、いっぱい飲んでおいてね」
ぴぃ、ぴぃ、洗濯機が電子音を鳴らし、止まった。
俺のスーツ、水洗いできたかな。青年は眉を寄せた。
|