『花ふぶき、風のなか』

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 ちょっと考えれば、おかしなことしてたんだって。見ず知らずの人のうちでトイレを借りる、それも、毎日のように、なんて。ぜったいおかしい。おかしかった。おかしかったのに、わたし、慣れちゃって、あてにして、それで。

 いつまで寒いのだろう。しくしくと寒い日ばかりが続いて、今年の冬はやけに長い、なんて思っていたら、いつの間に、桜が咲いて、あっという間に散って、気付けばもう、緑の葉が鮮やかな、そんな四月。
 大宮はな、はまだ肌寒いと感じる朝早く、住宅街の植栽のあいだの坂道を、ひとり、進む。
 駅から大学まで、坂道をくねくね、およそ、15分。それから、住宅を抜けて、また15分の、計30分ほど。小・中・高と徒歩通学だった彼女にとって、それは決して長い道のりではない。むしろ、苦痛であったのは、駅にたどり着くまでの、20分ほどの電車のほう。
 授業初日、はじめて朝のラッシュを味わった彼女はその混みようにすっかり面喰ってしまった。ホームから電車へ詰め込まれたかと思ったら、いつの間にか電車からホームへと投げ出され、改札まで押し流されて。学校に着いてもまだあっちこっちに人のにおいがまとわりついているようで、しばらくぼうっとしていた。
 毎朝これじゃあ、とてもじゃないけど耐えられないな。考えて、次の日は思い切り早い電車に乗ることにした。まだ昇りはじめの日が透きとおる水色を投げかけるころ、車内には空席さえあって、なんて快適。朝はそんなに苦手じゃない、一限の日はこれにしよう。早く着いたって、本を読んだり、スマホを見たり、人もまばらな学校で、時間をつぶす方法はいくらでもある。
 そうして、とても良い気分で、駅に着き、改札を抜け、大学へと続く坂道をしばらく上って、はなは、はっきり下腹部のそれを意識した。トイレ行きたい。
 朝起きて一番に、トイレに行った。それから、朝食はパン。目を覚まそうと飲んだコーヒーのせいかな。電車を降りたときにはそれほど気にならなかったのに。
 とは言え、立ち止まるほどでも、まして引き返すほどでもない。このまま大学を目指せばいいだけのこと。それより、昨日と同じ道とは思えないくらい、誰もいない。
 駅から大学まではほとんど一本道だから、この大学へ通う学生たちは、だいたいみな同じ道を通る。始業時間が近づくほど、学生の数は増え、決して広くはない住宅街の間、四人横に並べばもう、車が通ることもできなくて、それがあっちにうろうろ、こっちにうろうろしているものだから、ずいぶんクラクションを鳴らされることもあって。はなは、あまりいい気分ではなかった。
 それがどう、この道をいま歩いているのはわたしひとり。ときおり、駅に向かうのだろうか、スーツ姿の男性や、あるいは犬を連れた女性とすれ違うけれど、学生はきっと、わたしだけ。すこぶる快適。やっぱり、一限の日はこれにしよう。桜は散っちゃったけど、そのかわり、緑がきれい。
 くねくね、坂を上ると、こんどは平坦な道に出る。両側は住宅が並ぶ。かなり古そうなお家もずいぶんあって、どの家にもだいたい、緑がきれいなお庭がある。とことこ、はなは、家と緑の間を進む。あと、15分弱で学校。学校着いたらまず、トイレに行こう。一番近いトイレ、どこだっけ。
 左手、ブロック塀。その上から、葉を茂らせた枝が伸びている。塀が途切れる。門、あちこちはげて錆がのぞく、黒色の、がらがらするやつ。開いていて、おばあさんかな、中肉中背の、たぶん、おばあさん。と言うのは、おばあさんとおばさんの、間くらいの見た目。うっかりおばあさん、って言ったら、怒られそうな感じの、おばあさんが立っている。目が合った、わたしは反射で、会釈をしていた。
「こんにちは、いつも頑張るわね」
 おばあさん、いや、おばさん、ほんとにどっちか分からない、が、わたしの顔を見て声をかけた。
「あ、ありがとうございます」
 わたしは、なにを頑張っているんだか分らなかったけれど、とりあえずお礼を言った。
「奥の庭に桜が咲いているのよ、見ていかない?」
 彼女が、背後の家の向う側を手で指した。この家の裏には庭があるのか。けれど、桜がまだ咲いている? 思わず、足をとめた。
「お祖父さんは植木屋さんでね、立派な桜を植えてくれたのよ」
 彼女は話を続ける。きっと話好きの方だ。品の良い茶色のセミロングヘアを、真ん中で分けている。青地に紺のボーダーのカットソー、おしゃれな感じ。
 はい、あ、そうだったんですか。なんて、相づちをうって、ほんとは、どこで話を切ってよいか分からずに、彼女の話を聞いていた。桜の話、植木屋の祖父の話、それから、この家にお嫁に来たときの話。
 一限が始まるまでまだ時間はあるし、話は途切れそうにない。もうちょっと立ち話を続けても良かったけれど、あ、いや、まずいな。けっこうキツいかも。
 からだが左右に揺れる。両方のひざが少しづつ近づいて、腰が引けそうになる。恥ずかしいポーズの一歩手前で踏みとどまって、じゃあわたし、学校行きますので、また。そう言おうとした、矢先だった。
「お手洗い、使っていいわよ」
 わたしは、ぼん、と胸を叩かれたみたいにびっくりした。なんで、どうして分かったの。わたしそんなに、もじもじしてました?
「息子は出かけちゃってるし、わたしだけだから。いいわよ、遠慮しなくて」
 ええ、でも、そんな。わたしはきょろきょろ、目を泳がせる。いや、ありがたいですけれど、そんな、見知らぬ人のお家にあがって、しかも、トイレ、借りるなんて。
 あり得ない。って、思ったけど。



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