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 四月とはいえまだ肌寒い風のなかに、かれこれ30分近くいて、もしかしたらずいぶんからだが冷えていたのかもしれない。我慢しなきゃ、人さまのお家でトイレなんて、そう、あたまでは分かっていたけど、じゃああと15分、大学に着くまで我慢する? って聞かれたら、目の前のお手洗いのお誘いは、とても魅力的で、
「本当に、よろしいんですか?」
「いいわよ、前にも、お手洗い借りに来た学生さんがいたわよ」
「ありがとうございます、おトイレ、貸してください」
わたしは、遠慮なくお借りすることにした。
「どうそ、上がって」
 彼女はからから、玄関の戸を開け、ぽんとサンダルを脱ぎ、飴色の床の廊下にあがる。はなは後に続く。
「突き当り、左よ」
 右側と突き当りにはいくつか部屋があるらしかったが、ふすまはみな閉まっていて、はなは彼女の手が示す方へ、横をすり抜け、とととっ、小走り。
 左に折れて引き戸を開ければ、目の前にクリーム色の年季の入ったお手洗い。よかった、洋式。お借りする身で贅沢は言えませんけれど。
 今日はピンクのワイドパンツ。スカートなら、がばってたくしあげて、和式でもいけるけれど、パンツだと、ちょっときびしい。ウェストの飾りリボンを引っぱってほどいて、ふ、もう少し!
 座ると同時に、陶器を打つ水の音。古いお家だからかな、やけに大きく響く。わたし、すごい我慢してたみたい。これ、ここでトイレ借りなかったら、もしかして、大変なことになってたんじゃ。
 ようやく、音が途切れて。からから、ざぁぁ。手を洗ってトイレを出ると、あれ、あの人は?
 きょろきょろしながら玄関まで行くと、あ、サンダルがない。ってことは。わたしはスニーカーを履いて、玄関を開ける。あの人は、さっきと同じように、門のところへ道路の方を向いて、立っている。
「あの、ありがとうございました!」
 はなが後ろから声をかけると、ああ、びっくりした、そんなことを彼女は言ったようだったけれど、見知らぬ人の家でトイレを借りた、それも、ぎりぎりの状態で。その羞恥が、はなを駆け足にさせた。ちらほら、学生たちの姿が道路に見えた。

 はなの一限は、週に4回。1年生のうちにとれるだけ取ってしまおうと考えたからだが、はなちゃん真面目だね、そんなの2年で取ればいいじゃん、ぽつぽつ出来はじめた友人には、そんなことを言われた。
 別にいいじゃん、わたし、朝、嫌いじゃないし。一限のあるたび、はなは早起きして、快適な電車に乗り、清々しい緑の間を歩いた。そして、あのおばあちゃん、おばちゃん? は毎朝、門の前にいて、桜の話と植木屋の祖父の話とお嫁に来たときの話をして、しばらくすると、はなにお手洗いをすすめた。
 はじめてお手洗いを借りたあの日、きっとすごく久しぶりにトイレをぎりぎりまで我慢したあの日から、朝起きたときと家を出る前、はなは、2回、トイレに行くようにした。だから、それほど切羽詰まっているわけではなかったけれど、すすめられるとなんだか断れなくて、そのたびにお手洗いを借りた。
 そうして、四月も終わりかけの、その日。
 改札を出て、尿意を強く感じた。ええと、朝起きて、トイレ行ったっけ。家を出る前は? 意識して2回、トイレに行くようにしていたはずだけれど、だんだん、まぁ、大丈夫だろう、みたいな気になって、そう言えば今朝は、家でトイレに行っただろうか。朝食のコーヒーのにおいは覚えているのに、トイレのことはすっぽり、記憶から抜けている。
 そんなことを考えている間にも、足は進み、改札は遠くなり、駅のトイレは遠ざかる。
 おなかのした、きゅうう、ひどくざらざらしたかたまりが、押し当てられたみたいな。大学に着いたら、まっさきにトイレ、行かなきゃ。
 きもち、早足をしてみるけれど、上り坂。少し歩いては、だんだん、スローダウン。だって疲れちゃう。それでもまた、ざらざらが気になって、早足に挑む。わたし、すごくトイレ、我慢してる。
 ふ、ふ、ふ、いつもより、息が上がっている気がする。息を切らしている自分がなんだか恥ずかしくて、うつむいて、足元ばかり見て、歩く。ぎゅ、少し腰を引くような仕草、ちからを入れる。おなかのなかのざらざらが、かたちを変えて、流れだしそうな感覚。痛い。トイレを、おしっこを我慢する、という感覚を、ふだんいかに意識していないか、痛みが、語るよう。だって、毎日のなかで、おしっこを我慢する、なんて、そんなにないでしょ。おしっこしたかったらトイレ行けばいいし、そもそもそんなにしたくなる前に、トイレ、行くし。あたまのすみっこでそんなことを言ってみるけれど、いや、大学に入って3週間で、2回目の、おしっこ我慢。しょうじき、辛い。
 上りきる。道が平らになる。誰もいない一本道。あと15分。あ、トイレ、借りられる。
 ざらざらが、ふくらんで、ちくちく、いや、ずきずき。鋭く尖ったかたちのそれが、おなかのしたをつき破ってきそうで、思わず、足が止まる。くうっ、声にならないよう、奥歯を噛みしめる。もう少しの我慢だよ。歩こう、歩けばトイレが近くなる。
 右、左、右、左、歩みを進める。足を進める以外の力は、すべて、からだの一点に集められている。そうしなければ、あふれてきてしまいそう。そんなこと、あるわけないよね? もう少し、もう少しだから、我慢して。朝起きてからの水分はコーヒーだけしか摂っていない。電車の中だってそんなに気にならなかった。だから、大丈夫、あと少しの、我慢だから。間に合わないなんてこと、ない、から。



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