『薔薇の腕、十字架の指』

−1−
「じゃあ、おやすみ、ゆぅくん」
 そう言って彼女は、寝室の引き戸を閉めた。ぱしっ、小さな音がして、青年は闇に沈む。まだ冷たいかけ布団のきぬ擦れ、やがてカーテンの隙間からかすかな夜の光が差す。
 彼女、黒沢そう、が、青年、高倉ゆうと、と寝室を共にしなくなって、もうずいぶんが過ぎる。
 ことし春、彼女はそれなりの、堅調な勤め先を見つけ、社会人となった。就職することにずいぶんと不安を訴えていた彼女だったが、もともとはとてもスペックの高い子なので、まぁ、たぶん大丈夫だろうと、彼は思っていて、実際そのとおりになったのだけど、仕事が始まって少しして、
「わたし、リビングで寝るから。よろしく」
、そう言って、彼女が青年と一緒に寝ることがなくなった。平日の朝、目を覚ました青年を待っているのは、誰もいないリビングの静けさと、三つ折りにされた彼女の布団。
 社会人となれば家を出るのも早いし、帰りもそこそこに遅い。同棲中の、大学生の彼とは生活時間が大きく異なる。はじめは、早い朝に備えてだとか、新しい生活リズムに慣れるまでだとか、そんなふうに思っていたが、2か月、3か月と続き今に至り、さすがに青年の胸の内では、言葉にならぬ疑問符がふくらむ。
 別に、恋人同士としてのふたりの関係が破綻したわけではないはずだ、彼は思う。時間が合えば一緒に食事をしてお風呂にだって入るし、休日は手をつないで彼女のお気に入りのメゾンへ服を探しに行く。であればこそなぜ、一緒に寝ることだけ叶わないのか。
「先輩、どうして一緒に寝てくれないんですか」
、その言葉だけは何度も、口の中で繰り返した。けれど実際口に出して、彼女の気を損ねることがあるとしたら。気を悪くさせるとしたら。結局彼はその言葉をまた、飲み込む。俺は幸せじゃないか、先輩と、何気ない幸せな毎日を送れていて、一緒に寝られないことなんて、大した問題ではないじゃないか、そう、思って。

 それは、晴れた日曜日のこと。
 明日、お買い物に行こう。冬のコレクション、発表になるから。前の日の夕食どき、彼女からそう話があって、あ、もちろん、お付き合いします。青年は答えた。
 黒の制服調のワンピースに、黒のファーのケープ、身支度を整えた先輩と、僕はまぁ、いつものジーンズといつものモッズコート、行きましょっか、玄関に続く廊下でそんなふうに言う、と、
「ゆぅくん、今日、おトイレ禁止ね」
「え?」
 リビングからのびる逆光を背負って彼女の影が、言った。
「だからこれ、使って」
 続けて、彼女の細い白い指が、白い四角いものを差し出した。青年は少しそれを見て、
「これ、紙おむつ、ですよね」
、口に出す。
 先輩が僕にトイレを禁止すること、あるいは、おもらしを求めることは、実は度々あって、僕は断れるわけもなく、家で、外で、公共の場で、その度に着衣を濡らした。僕がおもらしをするとき、先輩は手を握っていてくれるけれど、別にそれから、何かするわけでも、言うわけでもなくて、僕のほうも、恥ずかしさを紛らわすため、濡れてるの目立ちませんかとか、冷たいっすねとか、言ってみるのだけど、うん、とか、そう、とか答えて、ちら、とこちらを見るだけで。
「僕が、穿くんですよね」
「うん、困るの、ゆぅくんでしょ」
「ですよね」
 僕は、四角いそれを受け取る。玄関の手前の僕の部屋に入って、広げて脚を通す。なま温かい下着は、まぁ、タンスのなかに戻した。ズボンを穿く。厚手のジーンズだし、コートも着ているから、たぶん、見た目では分からないだろう、と思いながら、お尻のあたりを手で触ってみたりした。
 動くと、ごわごわ、肌に擦れる。彼女は玄関でもうブーツを履いていて、ドアノブに手をかけている。
「500CCまでは平気だから。一回分くらい?」
 いや、そんなこと言われても。俺、穿いたの初めてだし。



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