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家を出て、彼女と手をつないで歩く、駅までの道。ごわごわの違和感。指先が汗ばんでいるのが分かる。駅に着くころには、その違和感にもだいぶ慣れていたけれど、それなりに人の乗った電車、当たり前のはずの光景なのに、当たり前でない見えない視線を感じた。別に、紙おむつを穿いて歩いていたって、それほどおかしいことはないじゃないか。そう、言い聞かせてみるのだけど、胸の奥のごわごわがぬぐえない。
目的の駅が近づいて、ずいぶん人も増えて、見知らぬ人とからだを触れ合わせながら、電車を降りる。違和感をまた感じる。歩き出すと、思うより寒い。次のトイレ、が、嫌でも頭をよぎった。
朝食のあと、家で用を足している。朝食にコーヒーを飲んだことを考えても、また、明日は彼女は仕事だからそれほど帰りが遅くならないだろうことを考えても、トイレに行くとしたら、おそらく一回。先輩の言葉を信じれば、一回分は、大丈夫。
休日の街の人込みをすり抜け、しかし、見えない視線から、逃れられない。心なしか、肌に擦れる感触が蒸れ、湿っぽい。
先輩が、人込みをひょいと避け、足を止めた。それから、鞄から水色の長財布を出すと、目の前の自動販売機にちゃりんちゃりん、硬貨を入れて、ごとん、ごとん。
「のど乾いちゃった。はい、ゆぅくんの分」
まじすか。彼女はホットのミルクティ。僕にはコーラを手渡して、彼女はこく、こく、口をつけて、鞄にしまう。飲めって、ことですよね。ぷしゅうぅ、泡があふれて、コートに点々、染みを残した。彼女が、なにやってるの、いたずらっぽい目で、笑った。
お目当ての店が見える。コーラは半分以下になっていた。すません、ちょっと手、洗ってきていいですか、べとべとなんで。僕は、狭い化粧室に入った。背後の白い小便器。用を足そうと思えば、きっと足せる。だけど、僕はそうしない。先輩の言葉に反する理由が、ただのひとつだって、ありはしない。
手を洗って、化粧室を出る。彼女が影のように佇んでいる。華やかな照明の届かない薄明りの中で、彼女の言葉に反する理由のすべてを、無意味にしながら。
布のにおいに満たされた、服の迷路。ねぇ、これ、似合うと思う? この生地いいね。どっちがいい? 他愛のない会話。服を見ているときの先輩は本当に楽しそうで、きっと本当に服が好きなんだろうと思う。下腹部のもっと下で、コーヒーとコーラが徐々に重みを増すのが分かる。僕は悟られぬよう、早まる鼓動を、息を吸い殺す。
二時間たっぷり、彼女は何件かお気に入りの店を回り、僕は二つの大きな紙袋と、きっと彼女の言葉がなければトイレに駆け込むであろう尿意を抱えて、お腹すいた、食べていこうよ。彼女の言葉を聞いた。
空になったペットボトルを自動販売機の隣のごみ箱に押し込み、目に留まったカフェに入る。座ると、すこし尿意が静まる気がする。彼女はクリームのパスタ、僕はクラブハウスサンドなんてのを頼み、こないだ職場でさ、まじむかつくんだけど、ちょっと信じられなくない? 愚痴を聞く。出会ったころと変わらない、刺のある言葉の数々。無邪気、とか、気持ちを話してくれてうれしい、とか思ってしまう僕はそうとう彼女が好きなんだろうなぁ、なんて少し苦笑して、ですよね、それはちょっとありえないっすね、大変だ、相づちを打つ。
息を吐きだすことが多くなった。つい、両ひざをくっつけたくなる。蒸れた熱気を感じる。床の上でつま先を立てたり戻したりを繰り返しながら、食後のコーヒーまで飲み終えて店を出ると、卵の黄身みたいな色に変わりつつある空が、さらに冷たく思えた。
家まで、あと1時間強。我慢、できるか。
店を出る前、先輩はトイレに行った。僕は小刻みに足を震わせながら、ぎゅっと指を結んで、彼女を待った。
帰りの電車は混んでいて、僕は人波に飲まれてしまいそうな小さな彼女と、両肩の荷物と、そして硬く重いお腹の下を気にしながら、吊革にしがみつく。手のひらがぬめる。手を離したら、落ちる、いや、流れ落ちてしまいそうで。彼女は僕の前にぴったりとくっついて立っていて、電車が揺れるたび、彼女の細い背中が僕の下腹部に押し当てられる。片手で吊革を、もう片方の手で、彼女の小さい手をぎゅうと握り、僕は立ち続ける。
彼女はどんな顔をしているだろう。きっと、いつもと変わらない、少し不機嫌な無表情だろう。電車の揺れを気にしながら、僕は片足づつ、上げたり下げたりする。前に立っているのが先輩でよかったと思う。もう、力を入れっぱなしのお腹の一番したは、悲鳴にも似た痛み。あと何駅で、降りられる。先ほどからずいぶん、停車していないような気がする。せめて、電車を降りるまでは。
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