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はい。分かりました。そっか、わたしは熱に浮かされたのか。お化けの仕業じゃ、なかった。
「須藤さんは我慢強い子ね。ずっと濡れた服のまま、気持ち悪かったでしょう」
我慢強い? わたしが? 恥ずかしいのと、どうしたらいいのか分からいのとで、ベッドのなかで小さくなっていただけの、わたしが? 先生は座ったまま、わたしの顔をじぃっと、見ていた。わたしは、やっぱりどうしたらいいのか分からなくて、ちらちら、先生の顔を見ながら、わたし、我慢強い? それっていいことかな、なんて、ぼんやりと。
「貸した制服は、そのまま返してくれていいから。でも、下着とシャツは買い取りで。ごめんね、あまり可愛いのじゃなくて」
いやそんな、レースとかフリフリとか置いてあっても、それはそれで。
「そうだ。親御さんには学校から連絡しようか? 自分で言える?」
熱のこと、早退のこと、タクシー代のこと、それから、おしっこ制服のこと、親に言わなきゃいけないことがいっぱいだ。とても、わたし一人で処理できそうにない。でも、言わなきゃ。
「大丈夫です、自分で話します」
「分かった。お金の清算は連休明けでもいいから。元気になったら一度、保健室に顔出してね」
そうだ、もうすぐ連休だった。せっかく少し学校に慣れたのに、また少し、学校が遠くなるみたいな。
「紅茶、冷める前にどうぞ。甘くするとおいしいわよ」
半分くらいになった紅茶。さっきはさすがにちょっと熱かった。お薦めのようなので、お砂糖。でも1本だけ。さぁぁっ、流れて、溶けて。ひと口運ぶと、ほう、ほんと、甘くておいしい。
タクシーはまだ来ない。さんさんと日の注ぐ窓の外から、体育の授業だろうか、賑やかな声が響く。洗濯機のまわる音。保健室ってけっこう、居心地いいじゃん。
「先生、変なこと聞いていいですか」
はるきは、ちょっと勇気を出してみた。確かめるんだ、噂の真相を。きっと、先生なら。
「花子さんって、何ですか」
「え、さっきの電話、聞こえちゃった?」
電話? そうか、あれ、夢じゃなかった。先生の声だったんだ。
先生は片目をつぶり、ちょっと眉間にしわを寄せて、いかにもしまった、と言う顔。それから、背中を丸くして、顔を近づけると、
「いい? 絶対に誰にも言っちゃだめよ」
はい、はるきは大きくうなずく。怖い話だったらどうしよう、が半分、真実を確かめたい、が半分。自然と、スカートの上の拳が握られる。
「花子さん、って、教員間の暗号なのよ」
暗号? って?
「おしもの失敗をしちゃった女の子がいたときの」
先生は、細い目をやっぱり細くしながら、言った。
「あまり直接的な言い方をすると、ほかの生徒に広まっちゃったりするから。花子さん、って言う約束なのよ。絶対、秘密にしていてね」
しぃ、と言うように、くちびるの前で人差し指を立てて。よかった、怖い話じゃなかった。
「あら、タクシーが来たみたい。気をつけてね。早く病院に行くのよ」
「はい、ありがとうございます」
ナイロンバッグをななめがけし、鞄を手に持つと、はるきは深く頭を下げ、保健室を出た。張りのある白い肌に、ボブとおかっぱの間ぐらいの黒髪に、空いっぱいの陽のひかりが降る。スカートのした、インナーを穿いていないせいか、やけに、すーすーして。
目の前にタクシーが止まっている。そうか、道路からここまで車が入れるんだ。
自宅の住所を告げる。タクシーが走りだす。右に曲がって、学校が後ろに遠ざかる。
さっき、先生は、確かに花子さん、って言ったんだ。
ってことは、わたしのほかにも、学校でおもらししちゃった女子がいたってこと。
同級生かな、それとも先輩かな。明日から、学校来られるかな。
もしも。そんな噂を聞いたら。わたし、その人とお話してみたいと思う。私のことも話して、もしもその人がとても落ち込んでたら、励ましたいって思う。うまくできないかもしれないけれど、同じ日に、同じ時間に花子さんになっちゃうなんて、なんかちょっと、不思議な感じしない?
はやく、連休終わらないかな。はるきを乗せたタクシーが走る背の高い新緑の街路樹の間を、次の季節の風が、すうっ、吹き抜けていった。
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