『ブレイブ・ハート』

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 ばんっ、て、たとえばとび箱のふみ切り板に飛び乗ったときみたいな、それはわたしの耳にだけ聞こえる音をさせて、おなかの下で一気にふくらんだ。あっ、て、思った次の瞬間には、不かっこうにじたばた、ふみ切り板から投げ出されるみたいにからだは言うことを聞かなくて、だめ、奥歯を噛みしめてあちこちをこわばらせてみようとしたけれど、それが弾けるのを止めることはできなかった。

ぱた、た、しゅいいい、しゃ、あ、たたた、

 熱はいちど渦を巻いて、それからとっさに開かれた両足の間を駆け下り、思ったよりも甲高い音を、床と空気とに響かせる。だめだ、もう、止められない。

しゃあああっ、たたたた、しゅい、しいぃぃぃぃ、

 ふみ切り板から投げ出されたからだは、とび箱に届くことはなく、けれど、地面に立っているというより、やっぱり投げ出されたまま、かたかた、浮き足だっていて。ふうっ、だめ、立ってなきゃ。

しぃっ、たたたたっ、ぴちゃ、ちゅっ。

 あんなに大きく膨らんだそれが、あっという間にしぼんでいく。すううっ、さっき流れたものはとても熱かったのに、首すじをつたう汗はぞくっとするくらい冷たい。どうしよう、やってしまった。足元に広がる光と波、おなかの、ううん、むねのもっとおくの方が溶け出して、それはのどを通って、鼻を抜けて、今度は瞳から、あふれた。

 小出ありえ。14歳。中学2年生。
 さらさらと絹のように細いしなやかな黒髪を、左右の耳の後ろでひとふさづつ束ね、放っておいたらするりと顔に落ちてきそうな前髪を、ヘアピンで器用に留めている。そこからのぞく白い額や頬は、それこそ今、血の気が引き、透き通って見えそうなほど青みを帯びていたけれど、それを差し引いてもとびぬけて色白であることに変わりはない。
 スカートを握りしめていた二つの小さなこぶしがようやく動き、じっとりと汗ばんだ指先は震えながら、左のホックを外した。それからおそるおそる、両足を引き抜き、ぱさっ、あと2秒後に彼女がそれを開け、腰かけるはずだった白い樹脂製の板の上に、そうっと、置かれる。
 目にしみるのは、冷たくて苦い汗。ぐっしょりと濡れた靴の上に起用に立ち、決して床に触れることなく下着を脱ぐと、まだ熱をにおわせるそれを、今度は白い陶器からのびる銀色の金属に引っ掛けた。
 そうだ。少女はぱっと、少女らしいしなやかな二本の脚とおしりとをうす水色のタイルの黎明にあらわにしたまま腰をかがめ、いまさっき置いた紺のプリーツスカートのポケットから、がさがさ、折りたたまれたハンカチを探り当てる。
 それでごしごし、肌の熱とにおいをぬぐうようにこすり、ぱさ、下着が掛かる金属に引っ掛け、またごそごそ、ポケットを探ると、小さくたたまれた布。しかしそれは開いてみれば、白い少女の下着。彼女は濡れた靴下が触れぬよう、おっとと、下着に脚を通す。あったかい、つかのまの安らぎ。いそいそとスカートを穿くと、はあ、ちょっと一息。ん、まだまだ。やることたくさん。
 まずは、息を殺して辺りをうかがう。この時間なら、たぶん誰も来ない。って思っても、やっぱり心臓が加速する。誰もいませんよね? 耳をそばだてながら、そうっと個室の扉を開け、よし、誰もいません、用具入れからモップを取り出すと、いそいで、証拠隠滅。もしも誰かに見つかったら、詰まってたみたいであふれちゃいましたって、口の中で準備をして。
 使ったモップ。じゃあじゃあ、水洗い。流れていく濁った水と、わたしのおしっこ。また、涙がでそうになる。ぎゅ、くちびるを噛んで、モップを戻したら、もう一息。
 個室に置いてけぼりの、下着とハンカチをさっとさらって、また水で、じゃあじゃあ。良く流したら、きつく絞って、しまった、袋忘れた。どうしよう、少し悩んで、ポケットに詰め込んだ。
 さっき、個室から辺りをうかがったときと同じように、呼吸を止めて、お手洗いを出る。小さなあたまがひょっこりとのぞく。きぃ、扉のきしみが廊下じゅうに響いた気がして、どくん、また、頬が冷たくなる。
 生ぬるい靴のなか。気持ちわるい。放課後の廊下にわたしの足音だけが聞こえる。運動部とか、グラウンドの方から声が聞こえるけれど、それはすごく遠い気がして。おしっこのにおいだけが、いつまでもわたしについてくる、気がして。

また、おもらしをした。
中学に入って、もう何度目。
たぶん、誰にも気づかれなかったことが、たった一つの救い。
でも。

 ベッドに体を投げ出す。頭をうずめる。帰ってすぐにシャワーを浴びたけれど、まだおしっこくさい気がする。あ、おふとんがおしっこくさいのは、別の理由か。
 今日は我慢できそうって思ったのに。やっぱり間に合わなかった。どうしてわたし、お手洗い我慢できないんだろう。ぎゅう、掛けぶとんを抱きしめる。やっぱりおしっこのにおいがする気がする。明日もしちゃうかもしれない。今度は誰かに知られてしまうかもしれない。力いっぱい掛けぶとんを抱き、きっとくしゃくしゃになって、それでもまだ力いっぱい、離したら、どこかに消えてしまいそうで。違う、いっそ、消えてしまえばいいのに。
 蛍光色の夕焼け。そうだ、濡れた下着とハンカチ、まだ鞄に入れたままだ。さっきシャワーを浴びたとき、靴下と一緒に洗ってしまえばよかった。ひりひりする目元をぐいとこすり、よいしょ、からだを起こすと、机のわきに置かれた鞄を目指す。ん、昨夜は何もなかったはずの机の上に、なんだろう、ちらし?

『あなただけじゃないよ ひとりで悩まないで』

、そんな文字が飛び込んで、窓から射す、すみれ色のひかりのなか、たてながの紙を手にすると、少女の目は続きを追った。それから、きゅうとくちびるを結ぶと、少し、首だけが上下して、やがて右手でポケットの中のスマートフォンを取り出し、紙面と画面とを交互に見ながら、指を走らせた。
 とく、とく、とく。心臓の音が聞こえる。それはもしかしたら、おもらししちゃったときと同じ音をさせて。

ここだ。
 家からそう遠くはない、なんだろう、公民館? コミュニティセンター? 白くて、ガラスがたくさん使われていて、おしゃれな感じ。こんな建物があるなんて知らなかった。そう言えば、ここに住んでずいぶんになるけれど、家と、学校と、ショッピングセンターと、ほかにはあまり行ったことがない。
 自動ドアが自動で開く。右手に受け付け。その右にホワイトボードがあって、第3会議室。
 扉の前には、チラシと同じ文字が書かれた紙。ノックしなきゃ、上げられた右手。はっ、はっ、心臓が加速する。知っているこの感じ。そう、おもらしのあと、保健室の扉を叩くときの感じ。
こんこん、
 ドアを引く。
「いらっしゃい、どうぞ」
 白い壁、白い机、白い蛍光灯。長机が長方形に向かい合った部屋で、わたしを出迎えたのは、同じくらいの背かっこうのお姉さん。
 わたしは、けっして背が高い方じゃなくて、どっちかっていうと、小さいほう。でも目の前のお姉さんも同じくらいのサイズ感で、なんだかちょっと安心する。
「あ、あの、はじめまして」
 わたしは吐息を漏らすみたいに、なんとかそれだけ口にした。漏らしたのがおしっこじゃなくて、よかった。
「どうぞ、座ってください。今日も暑かったね、来るの大変じゃなかった?」
 目を細めながらお姉さんが言う。
「いえ、あ、あの」
 わたしはまた、もごもご。
「どうぞ、座って。部屋、暑くない? 冷えすぎ良くないかなって、ちょっと温度高めにしてるんだよね」
 そう言われてみれば、スーパーとかみたいな、入った瞬間あ〜ってかんじの寒さはない。わたしは歩いてきたから、ちょっと暑く感じるけれど、べつに、気になるほどじゃない。
「あ、だいじょうぶ、です。あの」
「座ってからでいいよ」
 お姉さんが椅子を引いてくれた。わたしはまだ、さっき扉の前に立った時と同じどきどきのまま、腰を下ろす。それからお姉さんは、わたしの向かい、机ふたつぶんへだてたところ、に座った。お姉さんの前には、ノートと筆記用具、それに何か印刷されたプリントが何枚か、置かれている。
「はじめまして、わたしは結城みはる、と言います。隣の○○市のクリニックで看護師をしています」
 さっきと同じ、目を細めた笑顔のまま、お姉さんが言った。へぇ、看護師さんなんだ。どおりで可愛らしいと思った。え、看護師さんて可愛らしい人おおくないですか?
「今日は、来てくれてありがとう。さっそくだけど、あなたのお話、聞かせてもらってもいいかな?」
「あ、はい」
 何を話せばいいんだろう。あのことを話したくて来た。でも、いざ聞かれると。どう話していいのか、なにから話せばいいのか、うつむいて、少女の手はおなかの上で握られたまま。
「いくつか、聞かせてもらっていい?」
 お姉さんの声。そうだよね、何か言わなきゃ。顔を上げる、肩がこわばるのが分かる。あの、わたし、あ、の、
「スカート、可愛いね。すごい似合ってて。いいなぁ。」
 え、あ、そうですか? 可愛いかどうかは分からないですけど、服見るの、けっこう好きなんです。布の手ざわりとか、縫い方とか。あ、もちろん可愛い服も大好きです。ロゴ系はもう着られないかな。最近は、プレッピー? 制服っぽい感じのコーデとか、フェミニンな感じもお気に入り。
「わたしさ、あなたぐらいの年の頃は、スカート穿けなくてさ。あっ、ごめん、てぃうかまだお名前聞いてなかった!」
 細めていた目がぱちっ、開かれて。お姉さん、目大きい! さすが看護師さん、可愛い! じゃなくて、そう、わたしの名前。



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