『天使のラッパは夕映えにそそぎ』

−1−
 わたし、きっと幻を見ていた。アルカロイドに浮かされて、わけもなくどきどきして。
 わたし、嘘吐きだ。ごめんね、ゆぅくん。

 休日の遅い昼食を終え、僕は少し昼寝でもしようか、それとも止まっているゲームの続きでもしようか、深まりつつある秋の半透明の陽射しを窓越しに浴びながら、ソファに腰を下ろした。目をやれば、先輩は片付いた食卓にまだついたまま、スマートフォンを眺めている。
 彼女、黒沢そう、のわずかな違和感が、青年、高倉ゆうとの胸をかすめる。
 白い細い指がスマートフォンをなぞりながら、ときおり腰が左右に揺れる。食卓の下で、ゆったりとした部屋着のトレーナーワンピースからのぞく白い膝が合わされたり、やっと床に届く小さな足がつま先立ったり、擦られたり、せわしなく、ではないけれど、ゆるやかに断続的に動いていて、それが青年のこころに、ぞくりとする違和感を芽生えさせた。

先輩、おしっこ我慢してる?

 先輩とお付き合いをはじめて、もう4年か。その半分以上の時間を、一つ屋根の下で過ごしている。先輩が瞳に映るたび、先輩のぬくもりに触れるたび、先輩の重さを感じるたび、僕はますます、先輩のことを好きになる。どうしてこんなに好きなんだろう、自分でも不思議に思うほど、毎日、好きが溢れる。先輩とお付き合いができて、いっしょに暮らせて、なんて幸せなんだろう。毎日、僕は幸福に包まれている。大げさじゃなくて、僕は、幸せだ。もし、先輩がここからいなくなってしまったら。僕はきっと、生きてはいけないんじゃないか、そんなふうにさえ思う。
 青年は、窓の外に目をやったり、点いていないテレビを見つめたり、その合間にちらり、ちらりと彼女を見やる。彼女は先ほどよりも背中を丸めるようにして、両手でスマートフォンを持ち、やはり机の下の細い足首がゆるゆると、しかしなかなか止まらずにうえしたに動いている。

どう見ても、我慢してるよな。

 どくん。違和感はまもなく、期待と不安とが入り交じった興奮へと変質する。先輩、おしっこ我慢してる? どうして? そんなにスマホに夢中なのか? それとも。
 青年の胸の内で膨らみ始める興奮。性衝動、と言ってしまえばそれまでの。
 僕は、先輩の前でおしっこを漏らした。もう10年も前の話だ。あの日先輩は何も言わなかったし、少なくとも卒業まではひと言も触れなかった。僕のおもらしを、先輩は知らないのかとさえ思った。
 けれど、そうではなかった。
 むしろ少年の失態は、少女の胸の奥深くに、それは薔薇の芳香をまとった棘のごとく食い込んでいた。だが少年がそれを驚愕とともにそれを知るのは、ずっと後になってのこと。
 もしもあの時おもらしをしたのが、僕でなく先輩だったら。
 どうしてそんなふうに思ったか、なにかきっかけがあったか、もう覚えていないけれど、いつしかそんな想像をするようになって、僕は自分でもびっくりするくらい、興奮した。先輩はおしっこを我慢している。先輩はトイレに間に合わない。先輩はおもらしする。その空想はあの日、先輩を前にしておしっこが我慢できなかったあの時と同じ、いやもっと、息の詰まるくらい、胸が張り裂けそうなくらい、切なく、抗いがたく、僕を虜にした。幾度も、それこそ数えきれないほど、先輩の足もとの水たまりを想像して、吐き出した。
 わずかに黄色みを帯びる午後の陽射しからもう一歩だけ影に潜むように、机についたままの先輩。両の膝ははっきりと分かるほどすり合わされ、ときおり足を組む仕草。
 空想の中だけだったはずのおしっこを我慢する先輩が、いま、視界の端にいる。まるで、自分がおしっこを我慢しているみたいに、心臓が加速する。我慢できるだろうか、もしかして、漏らしてしまうんじゃないだろうか。切りそろえられた前髪にかくれ、表情を伺うことはできないけれど、切なそうに細められた瞳が脳裏をよぎる。かわいた唾液を飲み干すように喉がうごめいたけれど、粘膜がいたずらに張り付くばかりだった。
 彼女のおもらしを、青年は何度か目撃している。しかしそれは、我慢の末ではなくて、どこか、自分を試しているようだと、青年は感じた。窓からこぼれる街の明かりに、彼女の白い素肌が浮かぶ他は、もやの様な闇に沈んだ部屋。青年は自身の肌の上の重さを直視できずにいると、ねぇ、おしっこしたいんだけど、そんな声が注いで、はい、僕も我慢できません、聞かれてもいないことを答えて、おなかの上を熱い熱い液体が滑り落ちるのと同時に、いやもしかしたらそれよりも早く、青年がかみ殺せなかった吐息を漏らしながら見上げると、恍惚の中で彼女の瞳が君臨していた。
 直視できない。それはやはり、おもらしをした僕から先輩は視線を逸らしたように。けれど、加速し続ける心臓が吐く息とともに飛び出してしまいそうなくらい、興奮している。冷たい汗がくびすじを這う。視界の端、垣間見る。ぴったりと組まれた足、さっきよりも丸まった背中、ときおりよじるようにひねられる肩、スマートフォンを持つ右手、しかし左腕は、机の下に隠れて見えない。僕はついに、昂ぶりを抑えることができなかった、
 青年は立ち上がる。それから、座る彼女の真後ろまで歩くと、少し間をおいて、その小さい肩を背後から両腕で包んだ。びく、きっとただ驚いただけなのかもしれない、少し体を震わせてから、
「なに?」
、桜色の薄い唇が開いた。



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