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青年の右腕は滑るように彼女の体をなぞり、ちょうど机の真下あたりで止まると、そこでくい、と強ばる。
「や、」
、声なのか、吐息なのか、かすれたような。
「先輩、おしっこ我慢してます?」
僕は心臓が飛び出さないように慎重に、ささやいた。
「べつに、そんなでも、ないけど」
「ここ、すごく力はいってるみたいですけど」
、くい、と青年の指が、先ほどと同じところで強ばる。
「べつに、そんなに、我慢してないから」
抑揚のない、けれどどこかうわずったように聞こえる、先輩の声。
「じゃあ、このまま、抱きしめててもいいですか」
「べつに」
青年は再び両腕で、彼女を包む。彼女はいつの間にか両手でスマートフォンを握り、青年に包まれたまま、背中を反らすように一度、からだを伸ばした。
ひざを擦りつける音が聞こえるほどの力みを感じる。青年の腕のしたで、小さなかだらだがうねる。握られたスマートフォンはぎゅうと、薄い胸に押し当てられ、上体をかがめようとするのだけど、小さな彼女の肩がもがくには青年の腕はたくましくまるで閉じた鳥の翼のように、ぴったりと彼女を包み、ときどき、ふうッ、なまめかしい吐息が聞こえる。
「我慢なんて、してないもん」
、それはあたかも、鳥のさえずりに似て。
どく、どく、どく。聞こえているのは僕の血が脈打つ音か、それとも先輩の心臓の音か。僕の顔の真下の黒く細くつややかな髪。先輩はうつむいて、切なげな息づかいに、僕の方が先に、我慢できなくなってしまうかもしれない。
何万回も再生した、脳内動画、おしっこを我慢する先輩。いま目の前で、僕の腕の中で進行する画像は、想像通りでもあり、いや、想像より遙かに、魅力的で。
左右に振られる腰が椅子を揺さぶり、きぃきぃと軋ませる。この腕を緩めたら、先輩はトイレに駆け込むだろうか、いや、もしかしたらいたずらっぽい目で僕を見て、今度は君の番、なんて言うかもしれない。
ことん、机にスマートフォンが投げ出される。彼女の両手はそのまま、両足のあいだへと吸い込まれる。吐息をかみ殺すような、音か、声か。両足が、激しく震わされ、もしかしたら、止められない痙攣。んんッ、予感がさざ波のように、僕の背を這い上がった。
「小羊が第七の封印を開いたとき、天は半時間ほどの沈黙に包まれた。そしてわたしは七人の天使が神の御前に立っているのを見た。彼らには七つのラッパが与えられた」
「え?」
先輩が、息も絶え絶え、早口で何かを言った。僕はそれがなにかは分からなかったけど、あまりこの場に似つかわしくない言葉なのは分かった。
「また別の天使が来て、手に金の香炉を持って祭壇のそばに立つと、この天使に多くの香が渡された」
「何ですか、それ?」
「よはもく」
「よはもく?」
「ヨハネ黙示録!」
「何でヨハネ黙示録なんですか」
「なにか、別のこと考えたら気が紛れるかなって」
「あ、はぁ」
僕はすっかりあっけにとられてしまった。先輩はもう、ぎゅうと首を折り曲げて、じたばたしながらそれでもまだ何かつぶやいてる。両足の間に挟まれた手のやり場がどこなのか見えなかったけれど、そうとうの力が込められているだろうことは分かる。両足の痙攣が止まらない。言葉のうち吐息のしめる割合が多くなり、もうそれは、嬌声のようにさえ聞こえる。
「あ、だめ、やっぱり」
太ももがのたうつように上下して、両の手が脚のあいだにしっかりと押し当てられているのが分かる。僕はきつく奥歯を噛んで、こぼれそうになる吐息をすんでのところで押さえる。
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