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彼女の肩が大きくはねた。青年の腕をはねのけそうなほど。だが翼は開かれることはなかった。そして、
ぴちゃっ、ぴちゃ、たたた、たたたたたたっ、
夕映えの深い黄色の光線が伸びるフローリングの床に、青年と彼女の足下に、熱い泉が注いだ。音は一度途切れ、それから少しして、今度は先ほどよりも長く続き、音が止んだあとも彼女がからだを振るわすたび、ぴちゃ、ぴちゃ、波打った。それから、沈黙が続いた。
「先輩、大好きです」
青年がずっと探していた、自分の気持ちを伝える言葉。本当にこの言葉で良いのか、目の前でおもらしをした彼女にかける言葉はこれで良いのか、窓の向こうはすでに黄昏色に変わり、二人きりの部屋が薄闇に沈むころ、ようやく青年の口からこぼれた言葉。
「ありがと、ゆぅくん」
少し間を置いて返された彼女のささやきは、二人の足下に広がる水たまりに、溶けてしまいそうだった。
一目惚れ、ってほんとにあるんだ。
それは本当に偶然、通りかかった住宅街、秋の気配を匂わせる透明な陽射しを避けるように、背丈よりも高く伸びた枝葉にくっついた逆さに咲く黄色い花の下で、制服姿の男の子が、おもらしをしていた。
たぶん、見間違いじゃない。グレーのチェックのズボン、濃い色に変わっていて、あれは間違いない、おもらしだって。息が止まりそうになって、がぁん、こころを殴られたみたいに感じて、あ、これ、恋だ。
二十歳過ぎで、彼氏もいて、別にかなり幸せで、なのに、一目惚れするなんて、それも、見ず知らずの男の子に。自分でもびっくりして、その日から、ゆぅくんの顔がまっすぐ見られなかった。
こんな恋、叶うわけないじゃん。そう思ったけど、いつの間にかあの子のことを考えていて、あれからどうなったんだろう、どうしておもらししちゃったんだろう、何があったんだろう、そんな想像をしてまたどきどきして、ますます、恋しくなって。ゆぅくんはきっと、そんなわたしに気づいていて、先輩、なにか辛いことがありましたか? 最近、元気ありませんよ、なんて、声をかけてくれて。言えるわけないじゃん、見ず知らずの男の子に恋しちゃったなんて。
このまま、この想いが消えてなくなる日まで、誰にも打ち明けず我慢するしかない、そう思って。
「シャワー、浴びてきてください。こっち拭いておきますから」
まだわずか、蛍光紫の残照に浮かびながら、青年は声をかける。彼女は答えず、しかしその指がそっと、まだ自分の肩を包む腕をなぞった。
「我慢、できなかった」
その声は泣いているようにも、これから泣くことを予告してるようにも聞こえて、青年はどう答えてよいか分からず、強く彼女を抱きしめる。すっかり冷たくなった足下から、懐かしいようなにおいが立ち上る。
「ねぇゆぅくん、こんなわたしでも、好き?」
「当たり前じゃないですか。どんな先輩でも大好きです」
「おもらし、するよ?」
「めちゃくちゃ可愛かったです」
「おねしょも、するよ?」
「全然気にしません」
「あの日の誰かさんにそっくりな男の子がおもらししてたら、その子に恋しちゃうかもしれないよ」
「それでも先輩のそばにいられるなら、僕は何も望みません。たとえ、先輩の心の中に別の男がいたとしても」
「、へんたい」
「先輩こそ」
わたし、きっと幻を見ていた。アルカロイドに浮かされて、わけもなくどきどきして。
わたし、嘘吐きだ。ごめんね、ゆぅくん。幻はもう少し、覚めないかもしれないけれど、今日のおもらし、すごく気持ちよかった、よ。
*聖書引用
新共同訳1995 による
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