『園庭の十字架』

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『てんにおられるわたしたちのちちよ
 みながあがめられますように
 みくにがきますように
 みこころがおこなわれますように
 てんにおけるようちのうえにも
 わたしたちにひつようなかてをきょうあたえてください』

 息子が、澄んだ声で習ったそのままを唱える背後に、わたしはどんな気持ちで立てばよいのだろう。子と妻と、そして顔すら知らぬ誰かを思い浮かべながら、わたしはたどだとしく息子のあとに続いた。

 ただいま。わたしはいつものように帰宅する。廊下の向こうのリビングには白熱灯のオレンジの光がともっているが、返事はない。時刻は21時をすこし回ったころ。ちょうど、子どもたちの寝る時間だ。
 2LDKのマンションの一室、妻と、二人の子と、わたしの四人暮らし。子はふたりとも男の子で、上は小学二年生、下は幼稚園の年長。まだまだ、お母さんに甘えたい、というか、わがままの言いたい年頃、寝るときはいつも、お母さんに添い寝を求める。きっと三人は寝室だろう、あまりうるさくしてはいけないな、わたしはそっと鞄を置き、背広を脱ぐ。
 ふと、机の上に目がとまる。子どもたちの夕食の皿は片付けられ、いくつかの総菜が置かれた食卓に、わら半紙のプリントが乱雑に置かれている。かわいらしい手書きの文字が見える。きっと幼稚園からのお便りだ。次男が鞄に入れっぱなしで、お母さんに言われ慌てて出したのだろう。汚さぬよう、すこしまとめておこうか。そう、手を伸ばすと。
 わたしの目に、ちょっと信じられないものが飛び込んできた。いや、わたしが信じられないと感じただけで、知らぬ人がみれば、なんと言うことはない幼稚園からのお便りなのかもしれない。どくん、と跳ね上がった心臓を抑えるように、プリントを手に取る。わたしを驚かせたものは、そこに描かれた小さなイラストだった。
 いんふるえんざにようちゅうい、うがいてあらいわすれずに、あつぎのといれはおはやめに。そんな類いの記事に添えられていたのは、失禁をしてべそをかく少年と、しゃがんでその子の頭をなでる保育士風の女性。
 その挿絵が、わたしを驚愕させた理由は二つ。
 まず、しろうとの絵ではない。相当に書き慣れた、それも、漫画を書き慣れた人物によるものである、わたしは直感した。というのは、まぁ、わたしも若い頃、いわゆる同人創作なんてをしていた時期があって、漫画やイラストを描く友人も多かったし、なんなら即売会と言うやつにも足を運んだ、いや足しげく通ったことがあるくらいで、だからこのイラストの書き手も恐らく同じ仲間、しかもかなり高い画力、今時の言い方をすれば「神絵師」なんて呼ばれていてもおかしくないほどの画力の持ち主だと、経験から感じた。
 もう一つは、このイラストの随所にあふれるこだわり。それは服の濡れ方や、水たまりの広がり方、単純化されてはいるものの男児の足をつたう水流の描かれ方を見れば明らかだ。おそらく推測するに、この絵の作者は好き好んで描いている。濡れや水流を、すなわち、おもらしを。
 わたしはとっさに、幾人かの描き手の作品、絵柄や構図を思い浮かべた。そのどれとも完全な一致はしなかったが、類似点を挙げるには十分であり、それはこの作者がまごう事なきおもらし好きであると確信させた。
 間違いない。わたしと同じ、おもらしマニアだ。



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