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物心ついたときから、わたしは「おもらし」に並々ならぬ興味を抱いてきた。理由は分からないが、小学校に上がる以前から、「おもらし」や「おねしょ」について誰かと話し合いたい、話を聞きたいという衝動にも似た欲求を抱えていたことを覚えている。
小学校も高学年になると、親の留守を見計らい「わざとのおもらし」に浸った。中学高校は近隣の図書館や本屋を片端からまわり、児童書、漫画、小説、目に付く限り読みあさった。広大な本の海のどこかに、「おもらし」や「おねしょ」について書かれた書物が、物語があるに違いない。読みたい、その衝動だけがわたしを突き動かした。
成人を過ぎ、酒を飲むと友人たちはこぞって女性関係の話をしたが、わたしは酔いにも後押しをされ、おもらし、おねしょの魅力を語り続けた。茶化されながらでもそんな話ができたのは、まぁ、幸福なことであった。
そしてわたしは、わたしの望むおもらしおねしょのお話を自分自身で描きたいとの思いから、同人活動をはじめる。具体的には、そういった小さな本を自分で制作して、そういった即売会で売っていたのである。そういった話のできる仲間もあらわれ、それは本当に満ち足りた時間であったのだ。
身の上話が長くなってしまった。かくいう理由から、次男が幼稚園で配られたお便りの挿絵は、「おもらしを書き慣れた、おもらしマニアの」作者の手によるものに違いない、と、ひどく驚いたのである。
しげしげとイラストを見る、右下に「S」に似た模様が見える。サインだろうか。作者はどのような人物だろう、息子の幼稚園の誰かなのだろうか。ならば、息子の幼稚園には、おもらしの好きな神絵師がいる、ということになる。まさか?
わたしは一度、鼻から大きく息を吸い、ふぅっ、吐き出した。
待て待て、冷静になれ。このご時世、この手のイラストはネットを検索すればいくらでも見つかる。作者が幼稚園内の人物とは限らないだろう。だが、幼稚園が堂々とネット上の拾いものを挿絵にするだろうか? いや、園児の保護者にしか配られないのだから、むしろ盗用は表沙汰になりにくい、とも考えられるか。あぁ、幼稚園関係者の知り合いのイラストレーター、という線もありうるな。
「あら、お帰り」
寝室の引き戸がすうっと開いて、パジャマ姿の妻が半目で現れた。わたしは自分でもこっけいなくらい慌てて、プリントを机に戻した。心臓が高鳴っているのが分かる。まるで、アダルトビデオを見ているときに親に扉を開けられた少年のそれだ。わたしは少しの後、あらためて可笑しいなと思った。いい年をした大人が、何を慌てているのだ。
「ただいま、子どもたちも君も変わりはない?」
「うん、元気」
妻はまだ目をこすりながら、にこりと笑った。
「先にお風呂?」
「そうしよう」
「ごゆっくり」
わたしはスマートフォンを湯船に持ち込み、心当たりのあるおもらし絵師をのぼせるまで検索した。だが、同一のイラストは見つからなかった。
風呂を出、夕食にする。その間も、わたしの胸はさきほどのイラストでいっぱいだった。作者はどんな人物か、幼稚園の関係者か、年齢は、性別は。なぜ描かれたおもらしシーンは、少年と女性だったのか。渦巻く感情のうわつらで、向かい合う妻との会話がなおざりになっていないか、なにか気取られはしないか、そんなことをちらちらと、思った。
その夜、布団に潜っても、あのイラストと、その作者への憶測とがおかしな気持ちになってわたしの胸の中を回り続けた。
明くる朝、わたしはさらなる深みへと、足を掬われる。きっかけは、次男のひとことだった。
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