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「最近、よく子どもたちと話してるね」
 ある晩、妻が言った。
 わたしはどきりとした。少しでも「すずせんせい」の手がかりを求め、機会があれば。しかしあまり不自然にならぬよう、次男に話しかけた。まぁ、「おんなのせんせい」「わかい」と言う以上にはあまり具体的なことは分からなかったが。せめて、どんな状況で先生がおむつの話をしたのかと、先生の風貌や性格については知りたいところだ。
 さておき、妻に不信に思われるわけにもいかない。なにせわたしは、妻以外の女性に恋をしてしまったのだ。それは、妻や子や、その他わたしたち家族を祝福し支えてくれるたくさんの人たちへの裏切り、罪であるように、わたしには感じられた。
 気づかれてはならない。相手は実在するかどうかすら定かでない人物なのだ、このまま、この恋が消える日まで、そっと、胸の奥に閉じ込めていなければならない。
「お願いをしたいんだけど、次の金曜日、休みだよね」
 妻が続けた。
「ああ、なんだい」
 わたしは答える。
「タクを幼稚園まで迎えに行ってもらえない? わたし、ちょっと間に合いそうにないんだ」
「分かった。行くよ」
「ありがとう、良かった」
 そのときから、わたしはどんな思いで数日を過ごしたか、想像できるだろうか?
 すずせんせい、に会えるかもしれない千載一遇のチャンス。どのような手順を踏めばすずせんせいに会える? 息子になんと声をかければ、すずせんせいの特定ができる? いや、本当に会ってしまっていいのか? 今度こそ道を踏み外してしまうのではないか? わたしは今の生活に満足をしている。わたしを愛してくれる妻と、かわいい二人の子と。この幸せを失いたくはない。だからこの恋は、決して叶わない恋だ。叶わない恋でなければならない。
 わたしのこころは、叶わぬ恋という荊にからめとられ、さながら磔刑の罪人だ。そして、金曜日は来た。
 初めて入る幼稚園の敷地。玄関はオートロックで、解除キーを兼ねた保護者IDカードを常に携帯して。園に入るための手順でいささか緊張したが、いざ、園内に入ると、すぐにわたしの胸はすずせんせいでいっぱいになった。
 きっとわたしと同じように、子どもを迎えに来ているであろう父兄らの間を縫いながら、わたしは園舎のあちこちに目を走らせた。帰りの会、なんてをしているのだろう、教室にいる幾人もの姿。それとは別に職員室があるようだから、そちらにも先生がいるだろう。
 わたしはわたしの想像のすず、すなわち、あのイラストに描かれた女性保育士に似た人物を探す。いるはずがないと分かっていながら。
 やがて、各教室から子どもたちが出てくる。わたしもいそいそと、息子の教室の前に移動する。次男がやってくる。先生に挨拶をし、きょろきょろと園庭を見渡している。わたしは手を挙げる。彼が駆け寄る。おかえり。
 なぁ、すずせんせい、いるかい。わたしが尋ねようとした矢先、息子は出入り口とは違う方向へと走った。少し遊んでいくつもりなのかな、わたしも後に続く。園庭の端にわたしの背丈ほどの小屋があり、息子はその前で足を止めた。中には、白いマリア像が安置されていた。そうだ、この幼稚園はミッション系だった。

『てんにおられるわたしたちのちちよ
 みながあがめられますように
 みくにがきますように
 みこころがおこなわれますように
 てんにおけるようちのうえにも
 わたしたちにひつようなかてをきょうあたえてください』

 息子が、澄んだ声で習ったそのままを唱える背後に、わたしはどんな気持ちで立てばよいのだろう。それはまるで、わたしの祈りであるかのように、わたしのからだを駆け抜けた。懺悔しなければ。子と妻と、そして顔すら知らぬ誰かを思い浮かべながら、わたしはたどだとしく息子のあとに続いた。

『わたしたちの負い目を赦してください
 わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように
 わたしたちを誘惑に遭わせず
 悪い者から救ってください』

 きっとこころは、これからも磔にされたままだろう。わたしは訪れることのない救いを、赦しを求めて祈り続けるだろう。見れば、あちこちに刻まれた十字架。それらはみな誰かの生き様であり、罪であり、祈りであろう。
 しかし、息子があんなに上手にお祈りができるとは思わなかった、いや、もう年長。三年も通っていたのだからできても不思議はないか。次の春でもう卒園かぁ。あっという間だったな。
 帰ったら、妻と子どもたちのことを話そう。小さな手を握り、わたしたちは園を後にした。深まる秋の金色の木漏れ日が輝いていた。

*祈祷文引用
 『聖書』新共同訳1995 による



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