『垂直落下〜あるいは、ふたりの姫君〜』
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おふたりの姫君は、もともとお一人でいらしたのだ。だが、ウグイスとアホウドリの鳴き声を競ううち、天窓の火と地下牢の星を探すうち、いまではお顔立ちもお召し物もまるで正反対、まるきり別人のようになってしまわれた。
「なんですかそれ、聖書ですか?」
男は夕食の済んだテーブルを拭きながら尋ねた。
「さぁ? 聖書ではないね、少なくとも」
女は、リビングのソファでテレビゲームのコントローラーを握り、画面から目を離さずに言った。
「例えば、自分じゃないはずの誰かが、だんだん自分になっていく、みたいな」
「えぇ、怖い話ですか? 止めましょう、寝る前に」
女の言葉に、男はわざとらしく声色を変えて、答えた。
アパートの一室、と言うにはいささか広い3LDK。彼女、黒沢そう、とその彼氏高倉ゆうと、二人がこの部屋で迎える何度目かの春。偶然重なったお互いの休日を一緒に過ごし、あとは眠るだけ、おもいおもいの時間がゆっくりと流れている。
傍目から見れば美男美女、たいへん仲の良い二人であるから「実はふたりの寝室は別」という話を聞けば、おそらく驚くだろうし、何か勘ぐりさえするかもしれない。あるいは、同棲していても結婚するまではプラトニック? そんなことを思うかもしれない。
ふたりが寝室を別にする理由、それは、黒沢の夜尿である。
思春期を迎えるころから徐々に増えはじめ、社会人になるころにはほとんど毎晩と言ってもよいほどになり、二十歳前後から同棲を始めたふたり、当初は一緒に眠ることもあったのだが、ある時から、すなわち、黒沢が自身の夜尿がもう毎晩のものと悟った時から、高倉とともに眠ること、同じ部屋で眠ることを強く拒むようになった。
突然、彼女に一緒に眠ることを拒まれた。真相を知らず、嫌われたのかとやきもきした高倉であったが、おむつを穿いて眠る姿を、夜尿でおむつを濡らす姿を、ずしりと重くなったおむつを換える姿を、そして自らの纏う臭気を「知られたくないから」という、思い切って問うた彼に対する、彼女の恥ずかしさを押し殺した精いっぱいの回答を受け、それ以上、一緒に眠りたいと伝えることはできなかった。
職場からの帰路、揺れる電車のわずかのうたた寝でさえ、彼女は意図せぬせせらぎをこぼしてしまう可能性がある。けっして眠らぬよう、外では気を張り続けているだろう彼女に、せめて家にいる間くらいくつろいでほしい、たとえそれが、水たまりの上で目を覚ます結果であっても。どんなあなたも、僕は大好きですから。高倉は思う。けれど、それは声にはならない。彼女が重い下着を抱える自身の姿をどれほど見られたくないかもまた、痛いほどに分かるつもりであったから。
高倉は中学時代、初恋の女性、すなわち黒沢そのひとの前で、おしっこを漏らした。このまま消えてしまいたい、そうすれば、彼女にこの姿を見られずに済む。神様がいるのならどうか叶えてくれ、吐きそうなほど願った。先輩に、あの恥ずかしさを味あわせたくは、ない。
こころの中でせめぎ合う、二人の自分。一緒にいる時は夜尿など気にせずにいてほしいと願う僕と、恥ずかしい思いをさせたくないからそばにはいられないと願う僕。あなたを好きでいる僕はひとりなのに、まるで、正反対のふたり、みたいに。
「あした目がさめたら、ゆぅくんがわたしになってたりして?」
黒沢も、もともとハスキーな声をより下げて、言った。
「俺、先輩になれるんなら、めっちゃうれしいんですけど」
ぽとりと落ちた言葉は、まごうことのない男の本音であったのだが。
「え? きも」
女の反応に、多少なりとも傷つき、沈黙する。だが、その直後。
「ねぇ、なってみる? わたしに」
「へ?」
「ちょっとまってね、セーブするから」
彼女はかちゃかちゃとコントローラーを操作し、ゲーム機とテレビの電源を切った。それから、よいしょ、ソファから立つとまだきょとんとしている高倉の横を過ぎ、洗面所へと消える。しばらくまた、かちゃかちゃと何か小物を用意する音が聞こえ、高倉は眉を疑問符にしたまま、待った。
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