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「お待たせ、始めよっか」
「は?」
 彼女が持って来たのは、化粧道具。
「一度ゆぅくんに、本気の女顔メイク、してみたかったんだよね」
 なんすかそれ。
「だってゆぅくん、きれいな顔してるから」
 ごにょごにょ、ちょっと恥ずかしそうに続ける彼女がたまらなく愛しい。
「さすがにわたしの服は着られないから、お化粧だけ、かなぁ?」
 黒沢は身長150センチを少し超えるくらいの、ちんまりとした体型である。かたや高倉は、180センチ近い長身。二人ともよけいな肉の一切ないスレンダーではあるが、さすがに、彼女自慢のクロゼットに並ぶ、ゴシック・ロリータに袖を通すことは叶うまい。
「少しあご上げて、もう少し目細めて、そう、そんな感じ」
 時に目を細めたり、ちょっと眉を寄せたりして、手を伸ばせばすぐ触れられる距離に、彼女の顔がある。白い頬に触れたい、細い腰を抱きしめたい、きっと彼女は、不機嫌に眉間にしわを寄せ、冷たい言葉を浴びせるだろう。いや、そんな彼女も見てみたい。大好きな人がそばにいる幸福を、ゆっくりと飲み込む。
 15分ほどして、彼女の手が止まった。ことり、最後に使った口紅が、机に置かれる。ほう、彼女は小さくため息をついたように思えた。
「どうすか? ネタにはなりますか?」
 男は恐る恐る聞く。女はさも奇妙なものを見るかのような目で、男を見つめている。いったい何が起こっているというんだ。
 戸惑いを察したのか、彼女は手鏡を取り、かざす。映し出された姿に、彼は息をのんだ。
「くろうそ、ひめ」
 そこにいたのは僕ではなく、紛れもない黒嘘姫であった。

「ちょっと、びっくりしたていうか、気持ち悪いくらいで」
「すいません」
「いや、別に、ゆぅくんが悪いわけじゃないんだけど」
 彼女はスマートフォンを見ながら言う。
 きっとさっき、彼女が撮った写真を見ているのだろう。
 写真、撮っておこう。服は部屋着だから、顔だけね。そんなことを言って、ミニ撮影会が始まった。もうちょっと目線下げて、口ちょっと開けて。彼女に言われるまま、僕は表情をつくった。ひとしきり撮影を終え、彼女はこくこくとうなずき、お化粧、落としてきてもいいよ。わたしのクレンジングオイル使ってもいいから。言われて、青年は彼女が化粧を落とすときの手順を思い出しながら、顔を洗った。
 僕だ。間違いない。けれどさっき、あの手鏡に映ったのは。
「いや、でも、ぶっちゃけびっくりしました。俺、黒嘘姫だ、って」
「ん、わたしも思った。あぁ。わたしだ、って」
 僕たちの他に、この会話の意味を理解できる人がいるだろうか。いや、僕たちでさえ、よく意味が分かっていないかもしれない。足元からゆっくり、生ぬるい春の夜気に飲み込まれていくみたいな、ざわつきが沈む、黙。
「寝ましょうか」
「うん」
 青年は半分冗談のつもりで言ったが、応じられてしまった。
「んん、そこにいて」
 彼女は何を思ったのか、言うが早いか、ぱっと身をひるがえし自室へ消えた。僕はまたきょとんと取り残される。少しして現れた彼女の手には、見慣れた白い紙製品があった。
「え、ええと」
「お穿きになってください。黒嘘姫の夜の下着は、こちらですから」
 心臓が加速する。呼吸が浅くなる。息苦しさと背中合わせの恍惚が、脊髄を這いあがる。
「それから、明日の朝までおトイレは禁止です」
 夕食のあとから一度もトイレには行っていないが、朝までなら十分、我慢できる、はずだ。思考を失いかけた脳の片隅で、思った。



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