『evergreen』

−1−
「どうして、我慢できないんだろう」
 少女は太ももに張り付く布地の冷たさの不快感に、声にならない思いをもらした。

 小出ありえ。高校3年生。学年で一番、ではないかもしれないが小柄な体型は、ひょっとしたら小学生と言っても通用するかもしれない。華奢、という言葉が良く似合う細身な体つきだが、どちらかと言うと丸顔で、頬はふっくらとした、少女らしい丸み。一見すれば、どこにでもいる、むしろ、透き通るような白い肌と少し目じりの下がった愛くるしい瞳は、思わず目を留めてしまうほど印象的でさえある。
 そんな、彼女はいま、校舎の一番はじのトイレの個室で、そっと息をひそめている。

 辺りをうかがう。あと5分もすれば、次の授業が始まるはずだ。チャイムが鳴って、廊下が静かになったら、ここを出て、保健室へ。
 ちら、と下半身に目をやる。濃紺のジャージの内側は、さらに濃く、股間から太もも、足元へと色を変えている。きっと、後ろ側はもっと広く濡れているだろう。彼女の身に何が起こったのかは、誰が見ても分かる。
 ぜったいに誰にも会わないように。始業を告げるチャイムが鳴る。少し間をおいて、廊下のざわめきが静かになる。いまだ。少女は加速する心臓を抱え、震える手で扉を開けた。
 よし、廊下には誰もいない。保健室までは一直線。心臓はますます加速する。呼吸が荒くなる。けれど、頬は冷たい。ほんの数分前、その出来事が起こってしまったときのまま、熱が戻らない。
 一歩踏み出すごとに、濡れた靴下と靴がすれる音がする。何度聞いても、いや何度も聞いているからこそ、恥ずかしさがこみ上げる。もう少しで保健室だ。どうか誰にも見られませんように。
 扉の前に立つ。なかに先生以外の誰かがいたら、きっとわたしの失敗を知られてしまう。こぶしがまた震える。でも、ここで立ち尽くしていても変わらない。とんとん、控えめなノック。それから少しだけ扉を開け、すいません、小出です、あの。やがて、声は途切れる。
 大丈夫よ、入ってきて。聞きなれた先生の声。少女はわずかなすき間から保健室へと滑り込み、後ろ手で扉を閉める。はあっ、ため息といっしょに涙があふれそうになった。

 授業もう始まってるわね。制服と荷物、取ってこようか。このまま早退してもいいし。
 はい、ありがとうございます。大丈夫です、着替えたら、教室に戻ります。
 分かった。じゃあ、ちょっと奥にいて。ごめんね、冷たくて。
 いえ、こちらこそ。すみません、いつも。

 また、やってしまった。
 ピンクのパーティションで仕切られたベッドサイドは、高くなる陽射しから取り残されたように、うすぼんやりとしている。空調の聞いた室内だが、少なからず蒸す。もうすぐ夏だ。転校してから初めての夏。そして、高校生活最後の夏。
 なのにわたしは、またおしっこが我慢できなくて、おもらしをして、保健室のお世話になっている。

 2年生の冬の初めころ、小出はこの高校に転校した。もともと引っ込み思案で、人と話したり、ましてや打ち解けたりするのに時間のかかる性格であり、転校して半年以上過ぎた今でさえ、気軽に話しかけられる友人はごくわずかしかいない。
 そんな彼女が最も苦手なこと、それは、誰かにトイレに行きたいと告げることだった。
 会話を途切れさせてしまったらどうしよう、相手に嫌な思いをさせてしまったらどうしよう、トイレに行きたいんだ、トイレを我慢しているんだ、トイレの我慢ができないんだ、そう思われてしまったら恥ずかしい。そんな気持ちが、彼女の口をつぐませる。もう少しだから、我慢できる、そう、自分に言い聞かせてしまう。
 結果、彼女はいままで、幾度となく床を濡らしてきた。中学と高校だけでも、両手では足りないくらいの回数、失敗をしている。
 そのたびに、息を殺して、あるいは涙をこらえて、保健室の扉をたたく。
 失禁癖については転校時に伝えてあったためか、初めて学校でしまったときも、保健室の先生は好意的に接してくれた。それは彼女にとって、大きな安心材料になった。自慢できることでないのは重々承知しているが、幼い頃から繰り返してるから、思いつく最悪の事態を回避するためにどうしたらいいかは、からだに染みついている。
 だから、今回も、きっと今までの失敗も、先生以外には知られていないはずだ。そう、自分に言い聞かせる。



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