思春期をむかえ、性に目覚めるころになると、おもらし遊びは自慰行為にとって代わられました。
 我慢のすえ、こらえきれずに出てしまう。射精は、わたしにとっておもらしだったのです。
 自慰行為のとき、わたしは想像のなかで女の子になっていました。
 トイレに行きたいけれど行けない、さまざまな状況を思い浮かべ、苦痛や羞恥に歪む女の子になりきり、やがておもらし=射精にいたるのです。
 余談ですがいまでも、性行為で射精を迎えると「ごめんなさい」と言ってしまうことがあります。
 おもらししてごめんなさい、なのだろうなと、ぼんやり思うのです。
 おもらし、おねしょ場面のある児童書を探すようになったのもこのころです。
 インターネットがいまほど発達しておらず、またアダルトビデオや成人指定の本などを気軽に入手できなかったこのころ、おもらしやおねしょをあつかった児童書は、いちばん興奮できる書物でした。
 近隣の図書館をまわっては、片端から本を読みあさりました。
 児童書のコーナーに出入りする学生服の少年、というのはいささか周囲の目が気になるところでもありましたが、
 それ以上に、素晴らしい本を見つけ、下半身をふくらませていることを知られたらどうしよう、とひやひやしたものでした。



 成人したころ、古本屋のアダルトコーナーで、大きな出会いがありました。
 三和出版の『おもらし倶楽部』を見つけたのです。
 それまで、「おもらしが好き」と「性の対象としてのおもらし」と言うのは、わたしにとって必ずしも  明確に分かれていないところがありました。
 自慰にしても、「おもらしの代替行為」であり、性行為、ではなかったんですね。
 ところが、おもらし倶楽部を知り、明らかに性的対象としておもらしを見るようになりました。
 また、このころから、急速に発展しはじめたインターネットを通じ、世のなかにはおもらしを扱った作品が溢れていることも知りました。
 成年誌・アダルトビデオ・専門サイト・パソコンゲームなど、性衝動にまかせ探し歩きました。
 そこで、多くの作品に触れるうち、「わたしの好きなおもらし」について、考えるようになりました。
 わたしが本当にみたい、知りたいおもらしはなんだろう、
 たどり着いたのは、かつて読み探した、児童書に描かれた世界でした。一度は性的対象として位置づけられたおもらしですが、わたしがほんとうに見たかったものは、あまずっぱくてどこかなつかしい、遠い日のひそやかないち場面だったのです。
 やわらかな日差しのそそぐ静寂の中で、ある諦念と執着のあわいで、優しく、強くからだに広がるぬくもり、もう一度、あの日に、戻ることはできないけれど、こころのどこか、感じやすいところから、ひととき、あの瞬間を呼びもどせたら。

 おもらし抒情は、ここを訪れる方に、わたしの大好きな児童書の紹介が、胸のおくの、あのぬくもりを思い出すてがかりのひとつになれば、そんな思いから生まれたウェブサイトです。



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