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 決して都会ではないけれど、田舎でもない地方都市の郊外、
戦前は文化人たちの別荘地として愛されたという高級住宅地の真ん中にある、
それほど有名ではないけれど、まったく無名でもない私立中学校。
学校から、少し駅と反対側にあるけば、道の両側にはたちまち見上げるような
お屋敷が佇む、まるで外国映画のワンシーンのような景色になる。
 と、と、と、路地に規則正しい音が響く。ゆうは足早に、家々の前を通り過ぎていく。
はじめて見たときから、この景色が好きだった。つい胸を張って歩きたくなるような、
くすぐったい高揚感があった。これが天気の良い休日の午後ででもあったら、
意匠の凝らされた外壁や、その向うにのぞく物語の舞台のような庭を
ひとつひとつながめていきたいところだけれど、いまは学校帰りで、
しかも校則違反の真っ最中、もしかしたら見回りの先生がいるかもしれない、
気が気でなかったし、それに。
一歩すすむごと、おなかのしたのほうでたぷ、たぷ、液体が揺れる感じがする。
 「おトイレ、行ってくればよかったかなァ」
学校からおばの家まで、歩いて20分ほど、子どもじゃないんだから、
我慢できない時間じゃない。実のところ、学校を出る前からおしっこをしたい気持ちは
あったのだけれど、それほど切羽詰まっていたわけではなかったし、
それよりいかにだれにも見つからず学校を出るか、に頭を巡らせていたから、
トイレの優先順位はずいぶん低いものだった。
 けれどこの静かすぎるくらいの一本道をひとりで歩いていると、なんだかやけに
おなかのしたのほうが気になってくる。
「おばさんのところへ着いたら、おトイレ借りればいいや」
もう道程の半分は来ている、我慢できないわけがない、ゆうは歩きながら、
すとんすとん、肩を上げたり下げたりして、余計な緊張を解そうとする、
うん、同時に、下腹部にぎゅっとちからを入れなおす。
 小さいころから、ゆうはとにかく、気真面目だった。
変に正義感があるというか、だめ、と言われたことは徹底的にだめ、と思いこむタイプ。
 ついこのあいだも、クラスのお調子者たちが中心になって、あるいたずらを提案した。
声が小さくて、いかにも気弱そうな理科の先生、その授業の始業前、クラス全員で
先生に背を向けよう、と言いだした。先生は必ず、黒板のある教室の前の扉から入って来る、
その前に、全員の机を反対向きにしよう、この提案は即座に実行に移され、
入学以来いちばんの一体感で、クラスメイト達は机の向きを変えた。ただ一人、ゆうをのぞいて。
「ゆう子、ノリわるぅい!」
誰かが言った。
だって、そこから先は言葉にしなかった。

 長い一本道の先は丁字路にぶつかる。道幅が急に広くなる。このあたりからは好評売出し中の、
いかにも新興住宅街といった景色に変わる。まだコンクリートの基礎だけの分譲住宅や、
ロープと幟に囲まれた空き地も多い。ずいぶん向こうに、明かりがともり始めた中心街の
ビル群が見える。雲が重い、心なしか風が冷たくなった気がする。
 たぷん、たぷん、たぷん、おなかの下のほうで液体が揺れる。その重みで自分の体まで
揺らされるようで、ゆうは、気持ちを紛らわすみたいに、ふうっ、と息を吐いた。
 「おトイレに行かせてください」
彼女がもっと小さかったころ、その一言を口にすることは、まるで連行される死刑囚が
最後に無罪を叫ぶくらい、大変な重圧をともなうものだった。何か行事を中断させること、
それは小さいゆうにとってとてつもない悪事のように思えた。おゆうぎの時間はおゆうぎを
しなくちゃいけない、おひるねの時間はおひるねをしなくちゃいけない。それを、
自分の生理的欲求なんかで中断させてはならない。
 だから保育園のゆうは、失敗の常習犯だった、おゆうぎの最中、おひるねのふとんの中、
数えればきりがないくらい、ゆうは粗相をした。



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