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「とにかくもう一回曲かけるから。声出して」
居残り練習を始めて30分は過ぎている。曲だって何回流しただろう。ね、お願いだから歌ってよ。
わたしこんなに頑張ってるんだよ。トイレに行きたいのだって我慢して。
くすんだピアノの音に合わせて、歌声は聞こえる。
だからさぁ、もっと楽しそうに歌わなきゃ。笑顔で、張りのある声出して。
「じゃあ、今度はテープなしで歌ってみよ、良くなってるから、もうちょっと声出だそ」
口調に合わせて、小刻みに手を上下させる。自分がオーバーアクションになっているのが分かる。
イライラと、尿意をごまかす為だ。
動いていれば気付かない。
「いくよ、ワン・ツー・スリー…」
4拍めで息を吸って、歌いだし。なじみのある旋律。
はじめは抑えながら、語るように、そうそう、2回目は同じ旋律だけど、サビにつなげるから、
だんだんクレシエンドして、気持ちに合わせて、腕を大きく振る。
えがお、えがお。はい、下向かない。
「いっかいとめよっか」
前列の女子はざわざわ、後列の女子は、顔をそむける、舌打ちが聞こえそうだ。
いいよ、そっちがその気なら。
「ちょっとわたし、歌ってみよっか、サビはいるところ」
軽く息を吸う。
歌い出すと、お腹に力が入って、おしっことぶつかる。鈍い痛みのような感覚になる。
変な感じ。7拍、きちんと伸びたかな。
けど、いまはトイレに行ってる場合じゃない。
ちら、目をやる。後列の女子、眉間にしわを寄せている、まじうざいんだけど。
ああ、そうですか。
「じゃあ、最初からやってみよっ」
はぁ、どこかからため息が聞こえる。いや、どこからかは分かってるんだけど。
わかった、もう言わないから。歌って。
何度目かの第1コーラスが終わる。
「はい、良いじゃん。そしたら、ここからは、少し切りながら練習しよう」
みんな、早く帰りたいよね。休憩入れるより、はやく終わらせた方がいいよね。
大丈夫、おしっこ我慢できます。
りえこは、つとめて遠くを、教室の後ろの壁を見るようにした。きっと、あの子たちは歌っていないだろう。
さっきよりもさらに冷たい目で、わたしを見ているだろう。わたしだって嫌だよ。楽しくうたいたいのに。
見たくない。はやく終わらせます、はい、わかっています。
「じゃあまず出だしから、2行目までやるよ、ワン・ツー・スリー…」
声は揃ってきている、ちら、列の前の方にいる女子たちを見る。目線が下がっている。
表情も硬い。これじゃ勝てない。
「いっかい止めるよ、最初からもっと笑顔で行こうよ、ね」
誰に話してるんだろう、わたし。
「もう一回最初から、笑顔で、ワン・ツー・スリー…」
ぞくん、じっとしているのがつらい。立ち止まると、おしっこが一気に膨らむみたい。
リズムをとりながら、足踏みをする。サビに入る。
「そうそう、サビに入るから、もっと、ウワーっ、って感じでさ」
教壇の前を左から、右へ。しゃべっている間も、りえこは足を止めなかった。止まったら、おしっこがまた膨らむ。
「最初からいくよ、ワン・ツー・スリー…」
だんだん、リズムとは関係のない足踏みが増える。ぎゅうっ、力を入れていないと、おしっこがあふれそうだ。
押さえつけられた液体は、痛みとなって、下半身に居座る。
なんでこんなに我慢してるのかな、わたし。
歌声を聞きながら、少し可笑しくなった。
小学校はもちろん、記憶に残っているなかでは、りえこはおもらしをしたことがない。
だから、下半身の強い痛みを感じていても、自分がおもらしするかもしれないなんて、想像にすらのぼらなかった。
よし、あと一回うたったら終わりにしよう。ちょうど時間もいいし。
「すごいよくなったよ、これでラスト、もう一回歌おう!」
身体が左右に揺れる、というか、膝をすり合わせるような、腰をくねらせるような動き。
もう1秒だって止まっていられないほど、からだのなかの圧力が高まる。
呼吸のたびに、お腹に力が入って、痛みに変わる。痛いけれど、力をゆるめることはできない。
「行くよ、ワン・ツー・…!」
自分でも驚くくらい、大きな声。肩が強張っているのが分かる。
歌声は聞こえるが、それは歌として聞こえるのではなく、ただ、歌い終わりを待つだけの時間の流れ。
これが終わればトイレに行ける、もうちょっと、もうちょっと、はやく終わって!
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