―3―
「おばあちゃんのおむつでも使う?」
あの日、母は冗談めかして、そう言った。
ばちん、胸のなかで電流がはじけるように、痛かった。
 中学1年の秋、すずみは考えられない失敗をした。
クラスの委員会が終わった帰り、中身のない割に話だけ白熱して、すずみが学校を出た時はもう夜の7時を回っていた。
おばあちゃん、待ってるだろうな。
 父と母は働いているから、平日の夕食づくりは一番帰りの早いすずみが当番。口に合うものを、一生懸命考える。ひょっとしたら、母が作るものより、わたしのものをおばあちゃんはよろこんで食べてくれているかもしれない。
 暗い部屋でひとり、灯りもつけずに待っているであろう祖母を思うと胸が痛くて、急いで自転車に飛び乗った。会議の終わりころから尿意を感じていたのだけど、自転車をこぎはじめたら忘れてしまった。夕飯、何作ろうか。冷蔵庫、何があったかな。
 学校から自宅まで、自転車で30分はかからない。まだわずかに黄昏色の残る住宅街を、少女は走る。はやく、急がなきゃ。けれど、彼女の気を急かす理由は、家を目指したときのそれとは違うものになっていた。
 やば、おしっこ我慢できないかも。
ペダルに体重をかけるたび、下腹部からうねるような力が、おしっこの出口めがけてやってくる。意識を一点に集中させていても、前進するたびに押し寄せる波に、我慢への苦痛のほうが勝りそうになる。
 はやく、はやく帰らなきゃ、はやく、はやく。
帰りつけばおしっこもできる、もちろんおばあちゃんのご飯も作れる。それ以外の選択肢が、彼女には浮かばなかった。そして、そのことを猛烈に彼女は後悔する。
 家まで、あと五分たらず。最後の信号をまがった直後、彼女は、もうずいぶん味わっていなかった感触を下半身に感じた。
 泣きそうな顔で、いや、泣いていたんだど、立ちこぎを続けた。耳元で風がうなる音と、タイヤがアスファルトを蹴る規則的な回転音だけが聞こえた。一番聞きたくない音を彼女の耳は拾わなかった。
 時間にしたら30秒くらいだったろうか、ペダルを踏むと同時にあふれだしたおしっこは、自転車の前進に合わせて、勢いを失うことなく流れ続けた。おしっこ出ちゃった、覚えているのはそれだけ。おしっこがどうやって足元を伝ったのか、地面にはどんな跡が残ったのか、いまでもときどき考えることがある、けれど、いえ、もぐらたたき。
 泣きながら、駐車場のすきまに自転車を止める。濡れたサドルを拭く気にはなれなくて、そのままにした。
 玄関の前で唖然とする。祖母しかいないはずの家に、灯りがともっている。うそ。理解できなくて、考えるより先にドアノブを引く。
 あら、お帰りなさい、遅かったわね。
母の声がした。まだ理解ができなくて、リビングの扉を開ける。
祖母が食卓でもぐもぐ口を動かしていて、奥のキッチンにエプロン姿の母が立っている。
 帰ってるんなら帰ってるって言ってよ。わたし、何のために、あんなにいそいで。
 すずちゃんもご飯にする?
 わたしそれどころじゃないの。洗濯して、シャワー浴びるから。
 どうしたの。え。
母が手を拭きながら、すずみの立つ玄関をのぞく。

 おしっこもらしちゃったの!

 どうしてその言葉が飛び出したのかわからないけれど、とにかく、母に何か言ってやらなければ気が済まなかった。
母は少しきょとんとしてから、声を出して笑った。
 濡れたもの、シャワー浴びるついで洗っちゃいなさい。制服は平気?
 まったく、いい歳して。おばあちゃんのおむつでも使う?

ばちん。
わたしが聞きたかったのは、そんな言葉じゃない。




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