―5―
からだが動かない。呼吸だけがひゅうひゅう、早くなる。音を立てるな、誰か起きたらどうする。あたりをうかがう。常夜灯のくすんだひかりと、ささやくような寝息だけが部屋に満ちている。
からだを横たえたまま、おそるおそる、指を動かす。ハーフパンツの右半分はぐっしょり濡れている。腰を通り越して、胸のあたりまで冷たい。カーペットがどのくらい濡れているのか、指先だけでは分からない。手を伸ばす。彼女の寝ていたカーペットの端、その先、フローリングの床、ぴちゃ。ここまで水たまりが広がっている。どうしよう。ひゅう、ひゅう、ひゅう、息が苦しい。震える指先と同じくらいの早さで、心臓が喘いでいる。
どうしよう。どうしよう。冷たくなった衣類が、肌にまとわりつく。呼吸に合わせて、記憶が混濁する。おねしょなんて、いままでしたことなかったのに。最後にしたの、いつ? 思い出せないくらい。なのに、中学生になって、しかも、先輩の家で、どうすればいい、どうすれば。考えるんだ。混濁が渦を巻き、猛烈な速度で思考が回転するような感覚。
飲み物、こぼしちゃった、って言おうか。それで、先輩にごめんなさいして、カーペットは後日弁償。その時はごまかせても、時間経ったらぜったいおしっこくさくなるよ。すぐにカーペット処分してもらわなきゃ。あ、しゅしゅってする消臭剤、1階のリビングにあったよね。あれ、使おうか。でもリビング、男子が寝てるんだっけ。この格好で見つかったら、おねしょしました、って言ってるようなものじゃん。着替え、制服ならあるけど、先輩のハンガーに掛けさせてもらってる。誰も起こさないで、取ってこられる? 無理だよ。ていうか、まずペットボトル、取ってこなきゃ。そっと立ち上がれば大丈夫? 隣に寝てるのユキちゃんだっけ、確かかなり離れてたよね。ユキちゃんとこまで濡れてたらどうしよう。いや、濡れてたら起きるでしょ。だいじょうぶ、だいじょうぶだよね。
ペットボトル取って。誰か起きたら、こぼしちゃった、って言って。そうだ、こぼしちゃったことにすれば、もう見つかってもいい。ゆっくり着替えたっていい。消臭剤は明日、どさくさにまぎれて。ほんとにジュースこぼせば、におい、ごまかせるかな。とにかく、起きなきゃ。至上命題、ペットボトル奪取。
ひとつ、息を吸い込んで、吐く。冷たいおしっこのにおい。泣きそうになる。くじけるな、至上命題、ペットボトル奪取。
ゆっくり、上半身を起こす。オレンジ色の鈍い光の中で、自分の影だけが動く。肩に届かない黒髪は、外に向けゆるくはねていて、一直線に切りそろえられた前髪とあいまって、部活の友人は、きのこ、と呼ぶ。せめておかっぱにしてくれ、と思っていたけれど、このシルエットは、確かに、きのこだ。かさ、小さな衣擦れの音。気にするな。小事にこだわっている時ではない。
誰が掛けてくれたんだろうか、フリースのケットが乗っている。そうっと除けようとして、冷たい。こっちもずいぶん濡れている。気にするな、気にするな、小事にこだわっている時ではないんだ。カーペットの濡れていないだろう側に置く。一瞬、視界に入った下半身。みっともなく、黒く変色している。カーペット、漫画でしか見たことないような、いびつな、大きなおしっこの染み。くじけるな、くじけるな。至上命題、ペットボトル。
「黒沢?」
その瞬間、まぶしい光とともに、わたしのすべてが砕け散った。
わたしの目の前、部屋の引き戸が音もなく開いて、ひかりのなかに、シルエットになって、部長が立っていた。
なんということだ、部長がベッドに寝ていないことに、いまのいままで気がつかなかった。ベッドまで把握しよう、そんな余裕、なかったからだ。
部長は、廊下から差し込むひかりで、わたしの姿を見ただろう。みっともなく、おしっこに濡れた、わたしの姿を。わたし、もう部活にも、学校にも、どこにも、生きる場所がないよ。死んじゃいたい。
部長が手招きをしている。はやく、小さな声がそう言った。意思、はまだ砕け散ったまま、だけど、その言葉に引きずらて、わたしは壊れた操り人形みたいに這いながら、部屋を出る。すれ違いざま、大きな影が腰をかがめ、丸めてあったケットを恥ずかしいカーペットの染みの上にかぶせた。
廊下。白熱灯の残酷なひかりが満ちている。四つん這いでまだ動けないわたし。白いTシャツの右したあたりまで、薄グレーに変色している。部長は何も言わずに、わたしの脇の下に腕を入れて、わたしを立たせた。ぽた、冷たいしずくがふくらはぎのあたりを伝う。背の高い部長。顔を見る事はできなかった。
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