−4−
 僕はまた唇を結んで、本棚のほうへ向きを変えた。横隔膜を吊る歯車が、ぎりぎりと進む。それから、本棚のガラス扉を開けて、何だか分からない冊子を手に取った。
「とりあえず、待ちます」
 ひとり言のように言って、僕は黄ばみかけた冊子を開いた。
ひとつ、ため息が聞こえて、先輩は扉の前に腰を下ろしたようだった。僕も壁にもたれて、腰を下ろす。
 二人きり。しかも、密室。僕はこの幸運をどう享受して良いか分からずに、冊子に目を落とす。けれど、きりきり、罪悪感に似た幸福に逆らえず、なんども、横目で先輩を見つめる。
 先輩は体育座りのような格好で座っている。段ボール箱にちょうど隠れて、先輩の胸から上と、白い膝が見える。段ボールの背後の先輩のからだが、抗いがたく僕の目を固定する。先輩と目が合う。あわてて僕は視線を本に落とす。また嫌われただろうか。
 しん、しん、石だか何だか分からない埃と小さな砂だらけの床から、冷気が忍び寄りからだを蝕む。寒い。ぞく。トイレに、行きたくなった。
 今日はなんだか、トイレが近かった。先程の会議のあいだも、隙を見て2度トイレに行っている。水分を多く取っている気はしないけれど、急に行きたくなる。
 またちらと、先輩を見る。先輩は両ひざに顔をうずめて、いつもよりさらに、小さく、愛らしく見えた。ひゅう、小さな風の音がする。
「先輩、寒くないですか? 壁際、少しはあったかいですよ」
 とっさの思いつきにしては上出来な台詞じゃないだろうか。
「別に、寒くないから」
先輩は壁を見つめたまま、答えた。また、長い沈黙がはじまる。
 ちょうど床の真上に置かれた、筋肉のかたまりが硬くなっている。かなり、トイレに行きたい。時計を見る。19時30分。二人きりになって、まだ30分経っていないのか。時間と言うやつは、本当に、気まぐれだ。
 冊子のページをめくる。内容はまったく頭に入ってこない。ときおり添えられたイラストが、やたら、古くさい気がする。

「ねぇ、なんか面白い話してよ」
 唐突に、先輩は言った。驚いて顔をあげると、先輩がこちらを見ている。少し顎をあげて。眉の上でそろえられた前髪が、濡れて、乱れているように見えて、僕は息をのむ。リリス、そんな名前がよぎる。夢の中にあらわれて、男を誘惑する悪魔の名。きっとリリスを描けと言われたら、僕は間違いなく、今の先輩の表情を描くだろう。
「え、面白い話ですか?」
「そう、ないの? 何か」
 どくん、心臓が加速する音が、直接聞こえた気がした。体伝道か、あるいは、錯覚か。
 話題はないか。何か、何でもいい。頭の中の引き出しを、つぎつぎと、乱暴に開ける。
「先輩の書く話、すごいですよね」
「は?」
 何を言っているんだろう。でも、これは僕が本当に言いたかったことだ。今日二つ目の、欲望に素直な言葉だ。
「すごい、神秘的っていうか。儚い感じとか。すごく文学的だし、幻想的と言うか。目に見えない世界の本質を言葉にしている、って言うか。言葉って、本当はそういうものじゃないと思うんですよ。目に見えるものしか言葉にできない、みたいな。でも、先輩の書くものって、普通は言葉にならないものが言葉になってるみたいな、すごい強い感じがして。きれいで。すごいと思います」
 伝わっただろうか。
僕の気持ちは。出来れば先輩と、仮象の世界を共有したいんです。僕は存在の背後の領域で、先輩とひとつになりたい。僕の魂を上位界へと導いてくれるのは、同じく上位の存在である先輩なんです。少しでもあなたのそばにいたい。顕現する美、聖域の姫君、あるいは僕にとっての全存在。それが先輩。僕の、大好きな!

「ありがと。で、面白い話は?」
「いや、その、そうですよね」



←前 次→