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おしっこを我慢しているときって、妙に頭が冴える気がする。一種のトランス状態なんだろうか。括約筋、あるいは膀胱に自然と意識が向く分、雑念が取り払われるのか。普通だったら、決して言えない、言わないことを口に出してしまえる気がする。
「いや俺、いますごいトイレ行きたいんすよ」
先輩の顔をまじまじと見ながら、僕は言った。
「それは大変だね」
先輩が少し、笑った気がした。苦笑した、が正解だろうか。
「ちょっと面白かった」
それだけ言うと、また、壁のほうを向いて、両ひざに顔をうずめる。夜の冷気が空気まで凍りつかせる気がした。
沈黙が、膀胱にのしかかる。僕はもう、筋肉を緊張させ続けていなければ尿意に耐えることができなくて、体育座り、両足をかかえて、自分のひざを見つめる。
我慢できないなんてこと、あるかな。
このまま、20時になっても誰も来なかったら。背筋に氷でも落とされたような悪寒がする。
もし、尿意のことを先輩の告白していなければ、何気なく立ち上がりからだを動かしたりして、気持ちをごまかせたかもしれない。けれど、さすがに先輩の前で、おしっこ我慢しています、と悟られそうな行動をすることはできなかった。冷たい床に縛られたまま、耐えるしかない。
本当に、我慢できなかったら。どうなるんだろう。
先輩は僕を笑うだろうか。きっと軽蔑するだろう。たぶん、誰かに言いふらしたりはしないだろう。けれど、僕は翌日から、どんな顔をして先輩に会えばいいんだろうか。目の前で失禁をした男性を、先輩はどんな目で見るだろうか。
もう一瞬も、気を抜くことは許されない。駄目だ、と言い聞かせても、上半身が小刻みに震えている。足先を、無意味に上下させたりしている。
先輩の前で、おもらし、なんて。
時間が止まってほしい。そうしたら、いつまででも先輩といられる。おもらしもしないで済む。先輩と二人きり、今日のこの幸運を、永遠にできる。誰か、時間を止めてください。
「あと10分で8時だ」
ひとり言のように、先輩が言う声が聞こえた。耳に残る、かすれた声。
時間は、残酷だ。あと10分、耐えなければいけない。
そして同じくらい、からだは、正直だ。わずかに見えた解放の期待に、臓器としての働きを全うしようと、さらにその活動を強める。
まずい!
僕はあわてて、意識を集中させる。けれど、人間が死を支配できないのと同じように、肉体もまた、精神を上回るのだ。
じわ。
細い通路の、必死の抵抗をかいくぐり、液体があふれた。
一瞬。大丈夫、止まった。下着が熱くなり、それから、急速に冷たくなる。この位置なら、先輩からは見えない。僕は右手を両足のあいだに押しやった。その下の柔らかい皮膚が、ゆがめられ、鋭い痛みになる。けれど、からだのまん中で破裂しようとしてる臓器の発する痛みに比べれば、はるかにましだ。
「あと5分」
時間よりも、もっと残酷なのは、先輩かもしれない。
つぶやくような、低いカウントダウン。抑えつける指のわずかな隙間から、何回目かのしずくが、流れた。
もうすっかり下着は冷たく、重くなっていて、指先にも濡れた感覚が伝わっていた。制服が黒であること、今は冬で、長いコートを身に着けていること、それだけがわずかな救いだった。
ずいぶん漏らしてしまったからだろうか。膀胱がさっきより軽い感じがした。間もなく20時。きっと見回りの先生が来る。僕たちを見つけてくれる。そうしたら、なるべく自然な顔をして、トイレに行こう。きっと先輩は僕を待たずに帰るだろう。さびしいけれど、この1時間は、まぎれもなく、幸福だった。
「8時、だね」
先輩が顔をあげる。
「やっとですね」
僕も声を絞り出す。
けれど、待ち望んでいた足音は、声は、聞こえない。
ふぅ、先輩はひとつ、ため息をついた。
「来ないじゃん」
それから、扉のほうを見て、言った。
「どうしよう!」
少しの沈黙のあと、いままで聞いたことのない、高く、細い声が聞こえた。
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