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下半身を覆った熱は急速に奪われ、つめたさがへばりつく。
見下ろす。半分以上帯もほどけて、だらしなくはだけた浴衣のくせに、おまたから下、紺の模様の入った白地が、濃いグレーに、重い。きっと、おしりのほうはもっと濡れているだろう。
水色のスリッパのなかにも、たくさんおしっこが入り込んでいて、それ以上に、扉からおトイレまで広がるおおきな水たまりが、あたまの中を押しつぶすみたいで。絶望は、こんなにはっきり、目に見える。
あんなに我慢したのに。おもらししちゃうなんて。高校生にもなって。子供じゃないのに。みんな、もう上がってるかな。わたしのこと探しに来るかな。見つかっちゃったらなんて言おう。おもらししちゃった、って言ったら、みんなどんな顔するかな。本名は心配してくれるかな。池田は笑うだろうな。岡田はばかじゃないの、って、本気で軽蔑しそう。
ねぇ、わたしどうしたらいい? ここでみんなが来るのを待っていればいい? それとも、おもらししちゃった、って、お風呂にもどればいい? もういっかいお風呂入りたい!
どうしよう!
乾かされずにいる髪が、重く、冷たい。おトイレの、嫌な冷気。寒い、わたしは両手で顔をおおって、たぶん、泣いた。
ぱたん。
誰かが、おトイレにやって来る。びくん、わたしは息を殺す。誰だ。
ぱたん、ぱたん、足音はわたしの個室の前を通過して、奥の方へ、それから、がたがた、音が響く。
旅館の人かもしれない。この危機を打開できるのは、この時しかないかもしれない。声を出せ、わたし、助けを求めろ!
「あの、」
たぶん、かすれた声。のどがひゅうひゅう、言う。
「はい?」
柔らかい声。知らない人だ。よし、続けろ。
「旅館の方ですか?」
「左様でございますが、いかがなさいましたか?」
「あの、ちょっと、浴衣、汚しちゃいまして。よろしければもう一着、持ってきていただけますか?」
おトイレで、浴衣を汚す。それはもう、恥ずかしい失敗をしました、と告白をしたようなものだ。でも、とりあえず着替えないと。ここから出られない。
「かしこまりました。サイズはいかがいたしましょう?」
「あ、小さいので」
「承知いたしました。少々お待ち下さいませ」
よし。着替え確保。
水たまりはどうする? どうせ着替えるなら浴衣で拭いちゃう? さすがにまずいか。こっそり掃除用具でも使わせてもらえるか。
「お待たせいたしました」
「あ、ありがとうございます。上から投げてもらってもいいですか?」
「かしこまりました」
ぱたん。
浴衣が扉の上に垂れさがる。よいしょ。
「すいません、ほんとありがとうございます!」
「他にお手伝いできることはございませんか?」
「大丈夫です、ありがとうございます!」
それから、下着を脱いで、浴衣を着替えて。個室の外に誰もいなくなったのを伺って、ビンゴ、奥の清掃用具入れから、モップを拝借して、証拠隠滅。濡れた側を内側にして、くるくる浴衣をまるめて抱えると、何食わぬ顔をして、お手洗いを出る。
わたし、のーぱんだ。浴衣でのーぱん、むかしの日本人って、のーぱんで着物着てたんでしょ? 和の心、ちょっと分かりました。分かるわけないか!
一度、部屋に戻ることにした。たぶんまだみんな脱衣室。声が聞こえない。受け付けの前を通るとき、なんとなく、ありがとうございました、と声をかけて、階段を上がる。部屋には鍵がかかっている。濡れた浴衣を、扉の隅に置いて、急いで、脱衣室まで戻る。
のれんをくぐる、はなし声がする。まだみんないる。わたしはおそるおそる、扉を開ける。
「上たん! 大丈夫?」
「あ、うん、平気」
「あれからさ、池田がぜんぜん上がれなくてさ、大変だったんだよ」
「え、まじで?」
「上たんが、助けてくれないからさー」
「ごめん」
「あ、ご飯! 間に合う?」
「急いだ方がいいと思う」
なんて言いながら、部屋に戻って髪を乾かしたり化粧を直したりするんだ。間にあわないな、こりゃ。
わたしも自分の荷物を回収しようと、スリッパを脱いで、ぺたん、あ、足の裏拭いてない。ていぅか、ぜったいおしっこくさいよね。でも、もう一回お風呂に入るのもわざとらしくて、荷物と鍵を持って、
「先行ってるね! ご飯遅れないようにしようね!」
部屋に戻った。丸まった浴衣がまだ扉の前にあって、ちょっと、安心した。
ふとんが敷かれている。濡れた浴衣を、内湯のシャワーで流し、そのまま、空の浴槽に広げる。所要時間5分。まだみんな来ない。自分もシャワーを浴びようと思ったけど、いや、さすがに時間がないか。スリッパと足の裏だけ、シャワーで流した。
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