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 6ページ目。政治とかなんとか。あ、はい、習いました。ええ、知ってます。あ、そうですよね、大丈夫です。
 受け答えがテンプレート化してそうで、そればかり気になる。こいつ、話聞いてねーなー、そんなふうに思われてたら、どうしよう。何か、話しかけたほうがいいだろうか。でも、こういうときって何を話せばいいんだろう。どうやって切り出せばいいんだろう。名前呼ぶ? てぃうか、お姉さんの名前、なんだっけ。ごく、のどの奥がべたつく。麦茶、と思ったけど、やめた。さすがに、これ以上おしっこの素は補給しなくていい。
 きぃ、座面の上でじっとしていることを強いられている筋肉の一群が、ひきつるのが分かった。

 部屋にはクーラーがないから、行ったり来たりするだけの扇風機が唯一のよりどころで、一応窓は開いているけれど、外はやってくるのは30度を超える熱気。
 ひざ下までの、ブルーグレーのワンピース、部屋用。肌ざわりが良い。まぁ、近くのコンビニくらいだったら、これで出掛けちゃうけど。
 さっきから足を組みかえたり、服のすそをひっぱったりすることが多くなった。くるくるまわる事務椅子、扇風機みたいに、つい、右に行ったり左に行ったりする。下腹部が、重い。少し動くと気がそれるけど、挙動不審みたいに思われたら嫌で、どうしようか。
 トイレ、行けばいいだけのはなしだけど、なんて言えばいいだろう。すいません、ちょっと、って部屋を出ればいいだろうか、トイレ、って、なるべく言いたくない。そもそも、どうしてわたしがこんなに気を使わなければいけないんだ。わたしが、自分の家で、トイレに行くだけなのに。
「あやちゃん飲み込みいいね、ばっちり分かってるじゃん」
そぉいぅ気休めはいいです。分かってたらテスト出来てますから。時計が気になる。あと42分。まだあと42分もあるのか。
 視線を落とすことが多くなった。じっとしようとしているのに、お腹のあたりが前後に、小刻み往復をしている。ぎゅっと組んだ足。両足のあいだに巻き込まれた服のしわのところ、なんだか色が濃くなっているように見えて、ちく、嫌な感じが加速する。
「あやちゃん大丈夫? ちょっと休憩とかする?」
 まじ、気付かれてるかな。おしっこ我慢してるって思われてるかな。思考が麻痺しているのか、それとも冴えわたっているのか、休憩、あたりまで聞いた時点で、びくん、乙女の条件反射、おしっこ我慢を悟られてはいけません、って、いまいちばん邪魔なのはプライドかもしれない、あたまでは分かっているのに、
「いいです、大丈夫です」
、言葉が、先走っていた。
 こうなったらもう、最後まで我慢するしか、ない。

 11ページ目、残り3ページ。時計を見る。12時まで、あと30分。半分くらい麦茶の残ったグラスには、びっしり水摘が張り付いていて、きらきらしてたけれど、小さな透明の甲虫が群れているように見えて、気持ち悪いと感じた。
 足はもうだいぶ前から組んでいない、そのかわり、両ひざをぎゅっと寄せて、無意識に、太ももをこすり合わせるような動作、だめ、ぜったいおしっこ我慢してるってばれるでしょ。左腕で、上から無理に抑えつける。
 汗だって信じたい、密着させられている肌が、じっとり、湿ったような感覚。まさか、そんなこと。でも、力を抜いたら、でちゃいそう。
 お姉さんは、話をするときにこっちを向く。それで、じっとわたしの目を見て話す。わたしもなるべくお姉さんのほうを向いて、笑顔、と言うか、目を細めて、口の端を上げて。机の下の葛藤を気取られてはならない。あっ、ハイ、そうですね、変に明るい声、うわずってる、って言うのか。

 おなかの中で、ひろがり続けるかたまり。取り押さえようと、唯一の出口を力づく閉ざす。衝突。痛い。
 痛みを紛らわせようと、上半身を変に伸ばして、お尻を突き出すみたいな格好になって、椅子に、いちばん力の入っているところを押しつける。それも、数秒、今度は背中を丸めて、お腹を抱えるようにして、痛みを、止めようとする。
「だからさ、ザビエルとかが日本に来てるのは、プロテスタントの影響があるのね」
 このひとは何を言っているんだろう。ここはわたしの家だ。ここはわたしの部屋だ。わたしの椅子、わたしの机、けれど、知らないひとがいる。
 わたしは、何をやっているんだろう。知らないひとと二人きりで。どうでもいい話を。どうでもよくはないけれど、きっと別にわたしの人生にそんなに関係のない話を。こんなに、おしっこ我慢しながら。



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