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 いつの間にか彼女は立ち上がって、わたしの左隣で、そっと背中をさすってくれていて、わたしは両手を机の上について、おそるおそる腰を上げて、からら、椅子が少し後ろに転がって、でも、しゅわ、しゅしゅしゅ、るる、はっきり太ももをしずくが流れるのが分かって、だめ、腰を落として体勢を立て直そうとして、そして、現実は残酷だった。

かららら、ら、ら。

 あやが座ろうとした椅子は、彼女の重みから、あるいは、数秒後に予想される悲劇から逃れるためだったかもしれない、彼女のお尻の先が触れた瞬間、文字通り、転がるように、いや実際転がって、数センチ、後退した。戻る場所を失った彼女のからだはどん、と、鈍い音を物理的には立てて、フローリングの床に、落下した。
 あやには、自分が落ちた音は聞こえなくて、稲光にも似た空白の後、彼女の感覚器が最初に察知したのは、ぬくもりと、水の流れる音。

しゅわ、しゅわ、しょおおおおおお、

 やぁぁぁ、きっと、声にならないそんな悲鳴をあげて、まだ机に未練がましくしがみついていた両手を、片方は音の出どころに押し当てたけれど、もう片方はどうしてよいか判断できずに、くねくね、床の上をさまよって、それからやっぱり、もう片方の手の上に重ねられて、でも、一度あふれ出た音は、もう拡散する以外にはなくて、空気中に、音を、熱を、ふりまいていく。

しゅう、しゅしゅしゅ、ちゅ、たたた、たた、

 尻もちをついて、ぱんつまる見えで、おまたを手で押さえながら、おもらしする、わたし。
 うつむいたままの瞳に映る、ひろがり続ける水たまりと、まるで合成映像のように重なる、見えるはずのない、自分の姿。
 嘔吐にも似た嗚咽を押さえこむように、いや、涙かも知れない、ぎゅうう、目を閉じて、いっそ世界中がこんなふうに真っ暗になってしまえばいい、あるいは、もう二度と、わたしは目を開かない。

 フワリ、
 ふいに、足元で動く気配がする。
 ばた、ばた、
 何か大きなかたまりが足元で動いている。
 びっくりして、目を開けてしまう、と、見知らぬ背中が、わたしの前でもこもこ動いている。
 彼女は、四つん這いになって、腕を伸ばして、白地にピンクの花柄のタオルを、わたしの足もとの水たまりに浸している、いや、拭いている。
「や、やめてくださいッ!」
 言葉と同時に、彼女に手を伸ばそうとして、おしっこまみれのてのひらに気づいて、あわててひっこめた。
「おばさん来る前に、これだけ片付けちゃおう。服、着替えちゃおうよ。麦茶こぼしたことにして」
 彼女は下を向いたまま言う。小ぶりなタオルじゃ床にひろがる水たまりはとても拭ききれなくて、むしろ、いやらしくひろがり続ける。
「ほんとに、止めてください」
 恥ずかしい、汚い、どうしてわたしのためにそんなことするの、理解できなくて、言葉が途切れる。おしっこの水たまりの上で、しゃがみこんで、泣いているわたし。今日初めてあったお姉さんに、おしっこ拭いてもらっているわたし。なにこれ。だめだよ、こんなことしてちゃ!
 びゅう、立ち上がる。太ももにべったり、布地が張り付く。おしっこまみれの手。もういいから、ごしごし、腰のあたりで拭う。そうだ、タオル。部屋の奥のベッド、その足元のタンス、足の裏までびっしょり、被害を拡大させてるのか、でも、いちばん上の引き出しから、ありったけのタオルを出して、
「これ、すいません」
水たまりを塞ぐみたいに、押しつける。しゃがんだふくらはぎに触れる布の冷たさに、ぞく、背中が震える。
「ありがと、あやちゃんははやく着替えちゃって」
 分かってる。でも、着替えるって、ここで裸になるって。知らない優しいお姉さんの前で。いちばん恥ずかしい格好を見られて。てぃうか、床拭くの手伝わないといけない。自分のおしっこなんだし。またわたわた、どうすればいい、わたし。
「わたしさ、高一でしちゃったんだ、失敗」
 フワリ、声は、柔らかかった。
「え?」
「学校出るときさ、ちょっとしたいなー、って思ってたんだけどさ、家まで余裕でしょ、くらいな感じでさ」
 床を拭きながら彼女は続ける。わたしは、その脇にしゃがんでいる。床を拭くの手伝わなきゃいけないのに、どうしていいか、分からなくて。
「余裕ぶっこいてさー、近所のデパートとか寄り道してさー、デパートでトイレ行けよ、って感じだけど、なんだか変にひとの目気にしちゃってさー」
 水たまりはほとんど見えなくなって、かわりに、濃く変色したタオルのかたまり。彼女は話をしながら、タオルをいちまいいちまい、畳んで、重ねている。すごくおしっこくさい。
「家着いたら、もう限界でさ、玄関開けたとこで、ころん、って」
 ころん?



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