−6−
 二人きりの狭い部屋。
 制服のままの彼女は少し離れた物陰にしゃがんで、スカートから伸びる白い膝を、強く抱えている。
 僕には何もできなくて、大丈夫、大丈夫です、なんども喉から絞り出そうとするけれど、声にはならず、目をそらすことだけが、唯一の愛であるような気がして、彼女から顔をそむけ続ける。
 小さな彼女の息づかいは、けれど、苦しそうで、切なそうで、彼女が衝動を必死で抑えつけいる様が、空気を震わせて少年の胸の底を締め上げる。
 僕には何もできない、僕は、大好きな先輩のために、何もすることが出来ない。
 やがて、かすかな吐息とともに、液体の流れる音。感じられるはずのない温もり。それから、小さな、けれど終わることのない嗚咽。
 本当は、失禁をしたのは俺のほうなのに、俺はこうして、先輩を汚し続けてきた。ことによると、今この瞬間も。
「すません、1本だけ、いいすか?」
 商店街の狭間の、小さな公園に、返事も聞かず少年は滑り込んだ。
 蛍光灯が冷たい光を落としているほかは、黒ずんだ、静かな公園。少年はその暗い影のようなベンチに座って、煙草を取り出す。今日いちにち働かせ続けられたライターは、2、3度火花を散らして、やっと小さな炎をあげる。
 冷たい夜の空気と一緒に、煙を吸い込んで、吐きだす。煙は蛍光灯の下で、不可解な模様のようになって、消える。
「汚れちゃうかなぁ」
 先輩はベンチを見て、少し考えてから、コートを脱いで、少年のとなりに座る。二人のあいだ、人ひとりぶんほど、冷たい風が吹く。
「あのときみたいですね」
 少年は口を開いた。ぱち、赤く光る煙草の先が、小さく音を立てた。
 決して手に入れることのできなかったものを、今、見ず知らずの男が手にしている。やっぱり俺、嫉妬しているのか。
「寒いね」
 コートを荷物と一緒にベンチの上に置いた彼女は、ちょっと肩をすくめて、自分を両腕を抱えるようなしぐさをする。
「先輩、覚えてます? あのときのこと」
「あのとき?」
「部室に閉じ込められたときです」
「最悪だって思ったことは覚えてる」
「そうですよね」
 俺が、俺だけが彼女との間に抱えた、唯一の秘密。かつん、かつん、ときおり、公園の外を通る足音が聞こえる。
「ほんと、最悪でしたよね」
 最高の思い出。
「まさか、好きな人の前で小便漏らすなんて」
 煙と一緒に吐き出せば、消えてなくなってしまうだろうか。遠くで、車のクラクションだろうか、嫌な人工音が鳴る。
「ずっと好きだったの? わたしのこと」
「はい、ずっと」
「そっか」
 彼女はうつむいていて、顔を見ることはできない。髪の毛のあいだから見えるあごから耳にかけてのラインが、蛍光灯のひかりの下で、白く、きれいだった。
 彼女は少し、震えているようで、この寒さのなかコートを着ていないのだから、当たり前か。けれど、ぴったりと合わせられた両ひざは、少年の胸の底を締め上げ、2本目の煙草に火をつける。



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