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 おばの声は聞こえているけれど、ほんとに、右から左、内容を把握することができないまま、言葉がどこかへ逃げて行く。痛みの中心、じゃなくて、底、の方だろうか、感覚が神経をさかのぼって、まぶたの裏あたり、しびれるみたいな信号。
 ぎゅう、眉間のしわが皮膚をやぶりそうなくらい。左手の手首のあたりがわずかに触れるおなかの下、かちかちになっている。わたし、なんでこんなにおしっこ我慢してるんだろう。おばちゃんに一言いって、おトイレに行けばいいじゃない、なのに、どうして。
 何度目かの痛みからの逃避、おじぎみたいに折り曲げられた上半身のまま行われ続けている足踏みで、少女はおしりを振るような格好。誰にも見られなくて良かった。んん、誰にも見られていないから、こんなことができる。
 受話器を持つ手が震えている。トレードマークの、赤い縁の眼鏡の縁に当たって、かちかち、プラスチックの音。脇のした、汗のにおいがする。きっとわたし、ひどい顔だ。豚、って言われたらどうしよう。泣いちゃうからね。
 相変わらず、受話器の向こうでおばの声が続いている。この恥ずかしい姿はもちろん、きっと声や息使いも、気づかれてはいない。おばの鈍感さ、というか、もともと人の話を聞いていないひとか。それとも、普通想像しないか、電話の相手が、こんなにおしっこ我慢しているなんて。
 ぎゅうう、てのひらで、液体の行き先を遮断する。からだのちからだけでは、もう立ち向かえないかもしれない。どうせ誰も見ていないんだ。気にしなくていいじゃないか。両のふともものあいだに挟まれるてのひら、汗だよね、じっとり、濡れたような感覚。
 痛い。刃のない凶器を脅されている。鈍い、けれど、確かな痛みと、脅しじゃない、凶器はいつか、確実に、からだを、そしててのひらを、突きやぶる。
 無言の格闘、集中を途切れさせたら、きっとやられる。けれど、あ、ああ、あああッ、黙っていたら不審に思われるだろう。おばの話とはきっとほとんど無関係に、絞り出された声。聞こえちゃったかな、何か言わなきゃ、凶器から一瞬、目線がそれた。

しゅわ、

 自分の声が消えるよりもわずか早く、とうに限界を超えていた液体が、当然の権利とばかり、あふれる。
 ちからを集める。だめ、止まらない。少女は、上半身を電話台に押しつけたまま、ゆるゆる、しゃがみ込む。押し当てられたままの左手が捕まえているのは汗の熱だ。でも。その布地の先、さっきまで指先が押し当てられていた場所に、いま確かに、もっと熱い波が、広がろうとしている。
 ぬるりと腰を動かす。右足のかかとを足の付け根、たったひとつの液体の出口に押し当てる。下半身との距離が近くなる。熱に交じった、おしっこのにおいが、顔にぶつかる。
 まだ、もう少し。物理的に出口を塞いだ少女は、痛みからの刹那の逃避を企てる。おトイレ、おトイレ、今なら間に合う。おしっこはおトイレでするんだよ。わたしもう高校生だよ、おもらしなんて、あり得ないよ。立って、おトイレ、行こうよ!
 は、あ、あ。吐息を押さえきれず、受話器をはなした。受話器からは何かまだ声が流れているけれど、少女は右の指で、受話器の下の口を、おおった。
 ふうぅッ、息と一緒に、苦痛を吐きだす。肋骨がきしむ。内臓が締め上げられるような痛み、筋肉の硬直。それはドミノ倒しみたい、ぱたぱたぱたぱた、からだのなかを伝播して、限界まで膨れているであろう、臓器に押し寄せる。



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