−4−
 雲がずいぶんひろがっていて、薄いグレーの空。風が少し冷たい気がした。
 上半身をかがめて、一歩、一歩。それでも、タイヤが柔らかい土にとられて、おもうように進まない。芝生の上、こんなに走りにくいなんて思わなかった。進むだけで、そうとうなちから。力むと、くく、おなかの下のほうに走る信号、あれ、お手洗い、したいかな。
 胸のあたりの高さまで、枝が伸びている。それがいったい何列だろう。数えようと思ったけれど、あんまりにも多くてやめた。それぞれに色も形も大きさも違う花が咲いていて、根元には小さなプレートが挿されていて、品種名が描かれている。
 ローズ・ガーデン観賞会。1時間は自由時間。その後、さっきのビルで、昼食。
 白髪の彼女も一緒に園内をまわっていて、いろいろ、お花についての説明をしてくれている様子。
「わぁ、虫がいっぱい!」
岡本さんが顔をしかめる。花のなかには、アブラムシか、カメムシか、小さな虫がいっぱいくっついているものがある。虫ぐらいいるでしょ、んん、言わない、言わない。
 赤、黄、ピンク、紫、水色、オレンジ、それに白。一重、八重、大輪、つぼみ。すっと伸びた一輪。群れて咲く蔓。それから、降ってくるようなアーチ。どれも見飽きない。ひとつひとつ、いくらでも見つめていたい。
 ゆっくりとしか動けないのは、むしろ好都合かもしれない。全部は見きれないかもしれないけれど、ひとつひとつ、じっくり見られる。
 岡本さんは虫がでてくるたび、顔をそむける。悪いけど我慢して、わたし頑張ったもん。せめて薔薇くらい、ゆっくり見させて。
 15分くらいかけて、いちばん奥までやってきた。
 なんて言うのかな、垣がつくってあって、一面に薔薇が這っている。赤、白、ピンク、種類もたくさん。ここだけで1時間見つめていられる。
 けど、わたしたちはガーデンのはじをまっすぐここまで来た感じで、見ていない花のほうがずっと多い。わたしきっと、まる1日ここに居ても飽きない。残された時間のなかで、どれくらい見られるか。岡本さん、もうちょっと、付き合ってね。
 車いすを押す。岡本さんはもちろん、そんなに重いわけじゃない。けれど、芝生の抵抗は少女が全身のちからをかけてようやく進めるくらいにいじわるで、ちからをかけた分、それは、少女のおなかにのしかかる。
 ちょっと、飲み過ぎたかな。
 スポーツドリンクが体内で汗に変わるのと同じ速度で、下腹部に蓄積されている印象。大丈夫、別に意識しなければ、そんなに気になる話じゃない。
 ゆっくりと、茂る薔薇のあいだを抜ける。
 空はもうすっかりグレーで、さっきまでの暑さはどこかへ行ってしまった。まさか、雨なんて降らないよね、傘、持ってきてないし。
 大輪の黄色い薔薇が目に飛び込む。
「きれいだね、わたし、黄色好きなんだ」
岡本さん。きれいだね、わたしも言うけれど、どっちかっていうとわたしは、赤いほうが好き。
「あっちにも黄色いのがあるね、行ってみる?」
 わたしは岡本さんの返事を聞かずに、車いすを押した。がた、また、前輪がつまづく。
「ちょっと待っててね」
大丈夫、これくらい、わたしできるから。上半身をかがめて、足をつっぱって、進む。
 きゅう、進もうとするちからが、そのまま、おなかの上に落ちてくる。気にしない、って思ってるのに、ちからが加わると嫌でも気になってしまう。
 お手洗い、行きたいな。
 ちら、腕時計を見る。自由時間はあと30分ほどだ。我慢できない時間じゃない。ぎゅ、おなかの一番したに、ちからを集める。大丈夫、子供じゃないんだから。
 赤い薔薇。大きく開いているものよりも、つつましく重なっている方が好き。意外と、八重咲きの大輪のものが多い。わたしの好みは、すこし特殊なのか。
「へぇ、これも薔薇だって。違う花みたいだね」
 岡本さんが指した先、ほんとだ、カスミソウみたいな小さな花。けれど、目の覚めるようなピンクだ。
「ほんとだ、めずらしいね」
 やっぱりわたしは、薔薇らしいほうが好きだなぁ。



←前 次→