−5−
 きゅう、きゅう、車いすを押すたび、おなかの一番したにちからを集める。いや、自然とちからが入る。ちからを抜いたら、溢れてしまいそうな感覚。大丈夫だよね、からだがちゃんと我慢してくれてるもん。あと25分、楽勝だよ。
 ローズ・ガーデンの一番奥から、ゆっくり、入口へ戻っている。片道15分だったから、このペースなら、ちょうど時間いっぱいで戻れるだろう。まだ、見ていない花のほうがぜんぜん多い。また近いうちに、ゆっくり見に来たい。ここ、勝手に入っていいのかな。運動部の人たちは普通に出入りしてるんだから、勝手に来てもいいよね? 岡本さんなら知ってるかな。
「岡本さんは、ここ、来たの初めて?」
 少し腰をかがめて、聞いてみる。おなかの重いのが、ちょっと、楽になった。
「うん、あるのは知ってたけどさ、部活のときしか来なかったから」
 もったいない。わたしなら、部活の合間でも絶対見に行くのに。なんて。
 ぽつ。
 あれ、雨? ほっぺたを、冷たい刺激が走った気がした。気のせいかな。
「あれ、降ってきた?」
 気のせいじゃないみたい。岡本さんがてのひらを上にして、両腕を広げている。さっきよりもいちだんと、空が暗い。
「ちょっと急ごっか」
 名残惜しいけれど、雨に降られたらかなわない。わたしはともかく、岡本さんは間違いなく濡れる。ちょっとはやあし、に、なったつもりだったけれど。
 きゅ、く、きゅきゅ、
 柔らかい芝生にめりこんだ車いすは、さっきと変らない速度でしか進まない。それどころか、変に力んだぶんだろうか、おなかのなか、重みが大きな声で主張をしている。かなりお手洗い、行きたい。
 いっぽ、いっぽ、前進する。前進する事に気持ちを集中させろ。けど、意識はおなかのしたにばかり集まる。比率で言えば3対7くらいか。集中がそれると、車いすがまたつまづく。もう、わたし、しっかりしろ。前に進まなきゃ。
 風に乗って、雨のにおい。ひょっとしたら、ざあって降って来るかもしれない。急がなきゃ。
 きゅ、きゅうう、きゅう、
 前進するためのちからが、そのまま、おなかのなかの主張を後押ししてるみたいで、少女は奥歯を噛む。きっと前進することをやめれば、少しは楽になるだろう。レバーを握るてのひら、変な汗が染みだしている。
 どうする、岡本さんには申し訳ないけれど、ここで待っててもらって、お手洗いまでダッシュするか。いや、それじゃ、ぎりぎりまで我慢してました、って言うようなものじゃないか。おしっこ我慢してる子、なんて、思われたく、ない。
 上半身を折り曲げることが多くなった。車いすをちからいっぱい押すポーズ。大丈夫だよね、変に思われてないよね? 上半身を折り曲げるのといっしょに、両ほうの太ももをこすり合わせるような仕草。
 下腹部が、こちこちになっているのが分かる。それでも、前進のためにはちからを入れ続けなければならない。おなかに、ぎゅって、まるで、おしっこ、するときみたいに。
 車いすを押すちからを打ち消せるくらい、おなかのいちばん下にちからを集めなきゃいけない。痛い。相反する二つのちからのあいだで筋肉が悲鳴を上げている。痛い。
 もちろん、前に進むために足を動かしているのだけど、止まったら出ちゃいそう、意識のなかにはそんな気持ちが言葉にならずうごめいている。歩いていなければきっと、腰をくねらせるような動作、おんなのこが、いちばん、見せてはいけない仕草。
 大丈夫、お手洗いに近づいているだから。奥歯を噛みしめる。それでも、浅い吐息が、胸の奥からあふれてくる。きゅ、きゅきゅきゅ、きゅう、きっと恥ずかしい前かがみのまま、車いすを押す。
 空はまっくらだ。今にも降り出しそう。びしょぬれになったらひょっとして、ちょっとくらい間に合わなくても、気づかれないかな。
 何考えてるんだ。でも、もう限界だ。これ以上の前進は、おしっこを押しだそうとするみたいなものだ。ごめんなさい岡本さん、わたし、ちょっと、
 言おうとした矢先。

さ、ざ、ざああああっ、

 それはまるで、何かの予兆のように思えて、背筋にいやらしい波が走る。
 まわりの子たちは悲鳴を上げながら、タオルをかぶったり、あるいは両手で頭を押さえたりして、次々と走り去っていく。あっという間に、わたしたちから遠ざかっていく。



←前 次→