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 出入口の少し手前を、右に折れる。お手洗いはすぐ右手。廊下の奥の、小さく非常灯が浮かぶ闇は見ないことにする。
 お手洗いだ。もちろん真っ暗だ。明かり一つない。右手に個室が並んでいるはずだ。欲求レベル5、予想以上に進行が早い。一刻も早く欲求を満たさなければ危険な状態です、所定の場所に到達するまで、一瞬も気を抜かないで下さい。場合によっては、手で強く抑えるなどしても構いません、最善を尽くして下さい。
 は、は、は、恥ずかしいくらいに上がった吐息が聞こえる。左手は、今まさに溢れようとしている欲求の通路を、細く白い3本の指で、もっと恥ずかしく抑えつけている。
 右手は電気のスイッチを探している。壁を叩くような仕草、もぅ、はやく、はやく!
 どす。鞄が肩から落ちて手首に引っかかる。一瞬、手が離れる。だめ!

じゅじゅっ、

 汗だろうか、からだの熱だろうか、すでにぬるく歪んだ下着が浸食されるのが、確かに分かった。
 だめ、もう少し、はやくぅ!
 手首に鞄の持ち手が食い込んでいる。なぜわたしはこんなに重い鞄を持っているのだろう。それは、本がいっぱい入っているから。わたしははじめて、本を、本好きの自分を、恨んだ。
 けれど、手を離すわけにはいかない。手首の痛みよりも、じわじわと下着を浸食し続ける欲求のほうがはるかに問題だ。大丈夫、まだ指先に濡れた感覚は無い。まさか、スカートが濡れちゃうなんてこと無いですよね? けれど、どのみち手を離す選択肢はない。
 おなかのなかで、欲求は一点を目指し、猛烈な主張を繰り返す。落ちつけわたし、どんな相手にだって決して屈しない。自分の意見はつらぬき通せ。それがわたし、図書委員長山峰しづかです。
 ぱち! 右手がスイッチを叩いた。ぱっぱっ、わずかな点滅の後、蛍光灯がともる。見慣れたお手洗いのつくり。個室が3つ、いちばん手前に飛び込め!
 けれど次の瞬間、わたしの視界には予想だにしないものが飛び込んできました。

人がいる。

 きゃあ、と声を出したかどうかは定かではないけれど、たぶん10センチくらいは、両足が宙に浮きました。別に、怖かったわけじゃないんです。ただちょっと、驚いただけなんです。それで、きゃあ、って、言ってしまったかどうかは分からないけれど、けれど、おしっこは、確かに、出てしまいました。

しゅわ、しゅわわ、しゃああああ、

 明かりは点いたはずでした。でも、視界が真っ暗になりました。ふうっと、倒れそうになって、だめ、今倒れたらスカートが汚れちゃう、そんなことを考えて、踏みとどまりました。

ぱちゃぴちゃぱしゃ、しゅう、わ、しううううう、

 いちど溢れだしてしまった欲求をもう、抑えることはできませんでした。わたしは、高校生にもなって、お手洗いに間に合わずおしっこをもらしてしまったのです。

 たぶん、ずっと上を向いていました。視界は真っ暗でしたが、残像のように、蛍光灯が線状に、目に焼き付いていました。
 太腿を、あついおしっこが次々と流れていきます。靴のなか、足の裏ももうびっしょりと温かくなっています。
 いつのまにか、おまたからは手を離していました。スカートを濡らすまい、その思いがからだを動かしていたのかもしれません。それと、鞄も手からは離しませんでした。大切な、大好きな本が入った鞄を、おしっこの水たまりに沈めるわけにはいかなかったのです。

しょっ、じょっ、じゅう、わ、ぴちゃん、

 時間にしたら、30秒くらいだったでしょうか。きっと、ふだんお手洗いでおしっこをするのと、それほど変わらない時間だったでしょう。



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